IOC委員とは? わかりやすく解説

IOC委員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 15:31 UTC 版)

高石真五郎」の記事における「IOC委員」の解説

1940年東京五輪札幌五輪控えた1939年昭和14年)、高石はIOC委員に就任するが、これがJOC経ないでの推薦による委員就任だったことや、オリンピック開催中止第二次世界大戦およびそれに伴う自身公職追放などもあり、高石がIOC委員としての活動本格化させるのは1952年昭和27年)のヘルシンキオリンピックからとなる。 この頃1960年東京オリンピック招致目指していたJOC高石にも協力依頼するが、海外特派員としての経験から外国人との交流折衝長けていた高石存在は、次第JOCにとっても欠かせないものとなる。1955年昭和30年)のパリ総会投票1960年開催落選したことから、1958年昭和33年)のIOC東京総会では、高石病床から抜け出し会場内医師待機させた上で東京での開催を見るまで死ねない」とアピールする。これに対し「ならば高石を死なさないため東京開催反対する」というユーモア発言生まれたが、1959年昭和34年)のミュンヘン総会投票1964年の東京オリンピック開催正式に決定した開催決定後は地元のIOC委員として多く会議や他の委員への応対に当たり、開催時は柔道などの表彰式メダル授与役などを行っていたが、特に男子マラソン競技では、当時アベリー・ブランデージIOC会長秘書役の機転会長代わりメダル授与役を務め円谷幸吉銅メダル掛けた次いで高石札幌オリンピック招致にも力を注ぐことになるが、開催投票が行われる1966年昭和41年4月IOCローマ総会への参加病身のため断念する。しかし高石病床から他のIOC委員全員対し札幌開催への協力依頼する書状送付し、さらに招致訴え自身コメントテープ録音してそれを総会で流すよう依頼する。そしてローマ総会高石コメント流される委員から大きな反響呼びその様子を見たブランデージ会長発した高石への見舞い札幌開催を」という言葉札幌開催決定大きく影響することになった高石音声吹き込んだ録音テープその後札幌オリンピックミュージアム非公開のまま保管されてきたが、2017年母校である慶應義塾福沢研究センターデジタル化され、特別展近代日本慶應スポーツ体育目的忘る勿れ―」において期間限定公開された。

※この「IOC委員」の解説は、「高石真五郎」の解説の一部です。
「IOC委員」を含む「高石真五郎」の記事については、「高石真五郎」の概要を参照ください。

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