IOC委員
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1940年の東京五輪・札幌五輪を控えた1939年(昭和14年)、高石はIOC委員に就任するが、これがJOCを経ないでの推薦による委員就任だったことや、オリンピックの開催中止、第二次世界大戦およびそれに伴う自身の公職追放などもあり、高石がIOC委員としての活動を本格化させるのは1952年(昭和27年)のヘルシンキオリンピックからとなる。 この頃1960年の東京オリンピック招致を目指していたJOCは高石にも協力を依頼するが、海外特派員としての経験から外国人との交流や折衝に長けていた高石の存在は、次第にJOCにとっても欠かせないものとなる。1955年(昭和30年)のパリ総会投票で1960年の開催に落選したことから、1958年(昭和33年)のIOC東京総会では、高石は病床から抜け出し会場内に医師を待機させた上で「東京での開催を見るまで死ねない」とアピールする。これに対し「ならば高石を死なさないため東京開催に反対する」というユーモア発言も生まれたが、1959年(昭和34年)のミュンヘン総会投票で1964年の東京オリンピック開催が正式に決定した。 開催決定後は地元のIOC委員として多くの会議や他の委員への応対に当たり、開催時は柔道などの表彰式でメダル授与役などを行っていたが、特に男子マラソン競技では、当時のアベリー・ブランデージIOC会長の秘書役の機転で会長に代わりメダル授与役を務め、円谷幸吉に銅メダルを掛けた。 次いで高石は札幌オリンピックの招致にも力を注ぐことになるが、開催地投票が行われる1966年(昭和41年)4月のIOCローマ総会への参加は病身のため断念する。しかし高石は病床から他のIOC委員全員に対し札幌開催への協力を依頼する書状を送付し、さらに招致を訴える自身のコメントをテープに録音してそれを総会で流すよう依頼する。そしてローマの総会で高石のコメントが流されると委員から大きな反響を呼び、その様子を見たブランデージ会長が発した「高石への見舞いに札幌開催を」という言葉が札幌開催決定に大きく影響することになった。高石の音声を吹き込んだ録音テープはその後札幌オリンピックミュージアムで非公開のまま保管されてきたが、2017年に母校である慶應義塾福沢研究センターでデジタル化され、特別展「近代日本と慶應スポーツ―体育の目的を忘るゝ勿れ―」において期間限定で公開された。
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