IOCでの活動
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1980年、猪谷は、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めていた竹田恆徳より、自らの後任としてIOC委員を務めてほしいという打診を受ける。アメリカンホーム保険会社社長として多忙を極めていた猪谷はこの打診を辞退するが、竹田からの熱心な説得に折れ、委員就任を承諾、1982年にIOC委員に就任した。IOC委員業務の負荷を理由に、猪谷がアメリカンホーム保険会社を退職したいと申し出たところ、AIUグループは猪谷の事情に配慮し、猪谷を退職させるのではなく、グループの別会社に異動させた。 委員としては1994年の冬季オリンピック準備のための研究・評価委員会、第12回オリンピックコングレス準備委員会など多数の委員会の委員を歴任した。開催地候補都市の評価を行う評価委員会は、猪谷の尽力により設立されたものである。1987年から1991年までと1996年から2000年までは理事を務め、ドーピング問題への対応などに力を入れる。2005年から2009年まではIOC副会長を務めた。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し、2012年から名誉委員に就任、同年、それまでの功績を讃えオリンピック・オーダー銀章を受章する。 この間、1998年の長野オリンピックの招致のため、30カ国以上のIOC委員を訪問するなど奔走し、招致を成功させる。2020年の東京オリンピック招致についても、規則の変更によりIOC委員訪問は認められなくなっていたものの、100カ国以上のIOC委員に架電するなどの協力を行い、招致成功の一助となった。
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