招致成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 00:18 UTC 版)
「1940年東京オリンピック」の記事における「招致成功」の解説
1933年10月に病没した岸の後任としてIOC委員に選任された副島道正は、1934年(昭和9年)11月27日に高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇実弟)を訪ね、「開催権はイタリアに譲った方が良い」との本心を打ち明けた。 同年12月以降、副島は駐伊日本大使となっていた杉村とともにイタリア首相・ベニート・ムッソリーニへ直接交渉を行い、ローマが候補地から辞退するという約束を取り付けた。しかしIOC創設50周年にあたる1944年度オリンピックに、IOC本部のあったスイスのローザンヌが立候補することが明らかになると、1944年の開催は困難とふんだローマ市があらためて1940年度のオリンピックに立候補を表明した。1935年に行われた総会は紛糾して会期切れとなり、開催地決定投票を翌年にベルリンで開催される総会に延期するという異例の展開となった。この「イタリーの寝返り」は、日本において友好国である反伊感情を高まらせるきっかけとなった。 オスロ総会後、東京市はさらなる招致活動費用として、85,926円を計上した。しかし同年10月にはイタリアが第二次エチオピア戦争を開始し、ムッソリーニは再び東京における開催を支持する旨を表明した。杉村はこの後エチオピアの不支持を表明しており、誘致が取引材料にされたという指摘もある。翌1936年(昭和11年)3月19日、IOC委員長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールは客船秩父丸で来日。好感触を得た。3月27日、バイエ=ラトゥールは二・二六事件をのりきったばかりの昭和天皇に謁見。4月9日、離日した。 一方の日本側は、牛塚虎太郎(東京市市長)が競技場月島建設案に固執していたため、神宮競技場拡張案を有力としながらもどこに建設するのか決められないまま、最後の投票に臨むことになった。 6月2日に副島は昭和天皇に謁見、6月4日に横浜港を出発した。ベルリンのホテル・アドロンで同年7月29日より行われたIOC総会における7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して柔道創設者の嘉納が「日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」と演説した。結果として東京36票、ヘルシンキ27票で、アジア初となる東京開催が決定した。 1940年夏季オリンピック 開催地投票都市国1回目東京 日本 36 ヘルシンキ フィンランド 27
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