招致までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 06:51 UTC 版)
「1960年ローマオリンピック」の記事における「招致までの経緯」の解説
ローマは1908年の大会の開催地に決まっていたものの、財政的な理由で大会を返上しムッソリーニ時代にも第12回大会(1940年)の開催地に名乗り出たが、東京の強い要請を受けて最終的には立候補を降りていた経緯がある。 今回の大会の立候補地はローマの他、ローザンヌ(スイス)、ブリュッセル(ベルギー)、ブダペスト(ハンガリー)、デトロイト(アメリカ)、メキシコシティ(メキシコ)、東京(日本)の7都市であった。1955年6月15日、第50次IOC総会において3回目の投票で最終的に35対24でローザンヌを押さえ開催地に決定した。 東京は1回目の投票でわずか4票にとどまり(他国の得票はローマが15、ローザンヌが14、ブダペストが8、メキシコシティが6、デトロイトが6、ブリュッセルが6。)、落選した。 1960年夏季オリンピック 開催地投票都市国1回目2回目3回目ローマ イタリア 15 26 35 ローザンヌ スイス 14 21 24 デトロイト アメリカ合衆国 6 11 - ブダペスト ハンガリー 8 1 - ブリュッセル ベルギー 6 - - メキシコ・シティ メキシコ 6 - - 東京 日本 4 - -
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