招致と選定の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 08:49 UTC 版)
「1985年夏季ユニバーシアード」の記事における「招致と選定の経緯」の解説
1981年1月頃より神戸市はユニバーシアード招致計画を日本ユニバーシアード委員会、日本オリンピック委員会と日本体育協会に打診し、ポートピア'81博覧会終了後の同年10月に立候補を表明。11月のFISU総会でリオデジャネイロ、インディアナポリス、ザグレブを抑え開催が決定した。ポートアイランドなどの都市開発、開発のため当時地方自治体としては珍しく欧州で発行していたマルク債、スイスフラン債などの神戸市債の実績及び知名度が貢献したとされる。 1985年ユニバーシアード神戸大会が決まると、当時日本サッカー協会理事及び日本オリンピック委員会常任理事でもあった岡野俊一郎が「日本サッカーにとって大学サッカーは重要」との考えから来日していた当時世界のスポーツ界に強い影響力を持っていた岡野の友人のホルスト・ダスラー(アディダス創始者アドルフ・ダスラーの息子)にユニバーシアード神戸大会からサッカーを正式競技にする為、助力を頼んだ。すると、ホルスト・ダスラーはニューヨークにいたこれまた岡野の友人でもある国際大学スポーツ連盟(FISU)会長のプリモ・ネビオロに電話をかけ、岡野に取り次いだ。岡野の依頼を承諾したネビオロFISU会長は、FISU実行委員会から最初反対を受けたが、ネビオロFISU会長が強引に規約を改正して、ユニバーシアード神戸大会から正式競技にした。以後現在も、サッカーはユニバーシアードの正式競技となっている。
※この「招致と選定の経緯」の解説は、「1985年夏季ユニバーシアード」の解説の一部です。
「招致と選定の経緯」を含む「1985年夏季ユニバーシアード」の記事については、「1985年夏季ユニバーシアード」の概要を参照ください。
- 招致と選定の経緯のページへのリンク