学生生活と太平洋戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)
東京高等師範学校で醍醐は、永岡秀一や橋本正次郎、大滝忠夫らの大家に師事して柔道修行に励む。1943年5月には講道館の春季紅白試合で3段の部に出場して12人抜きの偉業を演じ、4段への抜群昇段となった。一方、当時は太平洋戦争の真っ只中でもあったので学校での授業は次第に行われなくなり、勤労奉仕として東京市内の工場での軍需物資の生産に携わる事となった。さらに、醍醐を含め東京高等師範学校で柔道や剣道を専攻する1・2年生約80名は1944年9月に静岡県蒲原町(現・静岡市清水区)の日本軽金属蒲原工場へ駆り出され、そこで軍用機の機体に使われるアルミニウムの生産に従事。徹夜の作業もあり重労働ではあったが、工場側の配慮もあって食料に不自由する事は無く、醍醐は工場付設の武道場で柔道の稽古を続ける事ができたという。同年10月には講道館秋季紅白試合で4段の部大将に抜擢されて5人を抜き成績抜群、18歳ながら早くも5段位を許された。 1945年2月に徴兵検査で甲種合格となり、7月には静岡から召集され二等兵として千葉県佐倉の陸軍歩兵333連隊に入隊、程なくして郷里・館山の海軍砲術学校へ移動となり、アメリカ軍の本土上陸に備えた。醍醐に拠れば、「軍隊生活はひどいもので、なにしろ軍服のサイズが小さくてボタンが閉まらない」「作戦も、海岸に穴を掘って爆弾を持って潜み、敵の戦車が来たらやっつけろというものだった」と述懐する。わずか1ヵ月後には終戦を迎えた。 復員した醍醐は母校・東京高等師範学校に復学するも、懐かしい校舎は戦禍を被って破壊され見るも無残な姿と化していた。武道が軍国主義の象徴としてGHQにより禁止されていた中、醍醐らは体育専攻の学生として授業を再開し、決して良好とは言えない環境下で勉学に励み、また、あらゆる手段を講じて懸命に柔道の稽古に取り組む醍醐の姿があった。
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