指導者としての尽力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)
醍醐は引退後、指導者として東洋大学で山岸均や前田行雄、加藤雅晴ら後に全日本や世界の舞台で活躍する選手を育成したほか、国士舘大学や実業団のNECでも後進を指導。かねてより関わりのあった警視庁では、1962年6月に当時の原文兵衛警視総監より技術吏員・副主席師範を委任されて主に選手クラスの強化を担当し、また時間的な余裕があったため、引き続き講道館にも顔を出して指導に当たった。 一方、1960年に東京五輪での柔道競技採用が正式に決まると、翌61年2月には全日本柔道連盟の中に委員会が設置され、醍醐のほか大沢慶己、山舗公義の3人が強化コーチに指名されてこの重要な役割を担う事となり、更に同年4月には日本体育協会からも柔道競技の強化コーチを任ぜられた。全国から選りすぐりの有能な選手を集め全日本柔道連盟として初めての強化合宿を行うなどし、東京五輪の大会本番では4階級のうち無差別級を除く3階級で金メダルを獲得した。 1966年、警視庁の中に警察官の必修科目ともなっている柔道・剣道の指導者養成を目的とした柔剣道指導者養成科(のち逮捕術等もコースに加えて術科指導者養成科に改称)が組織されると、醍醐は警視庁技官・警察大学校教授の待遇での就任を打診された。これを引き受けた醍醐は、各県の警察本部より推薦された柔道担当者を1年間指導し、これらの生徒は嘗(かつ)て選手として活躍し醍醐とも旧知の仲でもあったので、厳しい中にも笑い溢れる楽しい学校生活を共に送る事ができたという。全日本柔道連盟では1965年より審判委員会委員、1979年から1990年まで理事を務めて永く柔道界の運営に携わったほか、一方で道衣に袖を通す事も疎かにはせず、講道館では1981年に道場指導本部が創部されると、部長の小谷澄之9段の補佐役として副部長に就任している。このほか、全日本柔道連盟の推薦を受けて、日本体育協会にて1977年から1985年までの間に評議員・理事を拝命し、加えて同協会の競技力向上委員も務めた。 また、引き続き全日本代表強化の第一線でも尽力し、1979年には広瀬巌8段の後を継いで強化委員長を拝命、以後は世界選手権大会のほか1976年のモントリオール五輪や1984年のロサンゼルス五輪で柔道競技の監督を務め、年末年始の休暇も返上して選手強化に勤しみ、いずれも半数以上の階級で選手を金メダルに導いた。しかし1988年のソウル五輪では惨敗を喫し、斉藤仁5段が重量級を制して何とか面目を保つのがやっとであった。翌89年3月には任期満了により10年間重責を担った強化委員長の職を辞している。
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