指導者としての広岡
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監督として就任当初は弱小球団だったヤクルトスワローズ・西武ライオンズを就任から僅かな期間でリーグ優勝、日本一へ導いた手腕は多方面から高く評価されている。西武から監督の就任の要請を受けた際、管理部長の根本陸夫から「真のプロ野球を教え、彼らを戦う集団に変貌させてほしい」と乞われている。根本も広岡について「球界で最も妥協の無い人物」、関根潤三も「文句無しに球史に残る名監督。大指導者」と評している。早稲田大学の後輩である近藤昭仁・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一からは深く信奉されている。近藤は「広岡監督の戦略は、いままで見た監督の中で間違いなくナンバーワン。特に選手に自己管理を徹底させる方法と、根気良く選手の欠点を矯正していく技術はプロ中のプロ」と述べている。 田淵幸一は広岡のコーチングに最も強烈な影響を受けたと自著で述べているが、それは“まさに、ケンカ、選手を怒らせて上手くさせるコーチング”と解説している。西武キャンプ初日に全選手を前に主力選手を「給料泥棒」「引き際を考えろ」などと一人ずつ批判したため、選手間で「アイツの目が節穴だったと証明してやる。絶対優勝してアイツを胴上げして4回目で全員の手を離して落としてやる」が合言葉になったという。これは、このチームはベテランの働きが鍵を握ると考え、ベテランを奮起させればチームの体質が変わるという広岡の戦略でまんまとこれにはまった。不思議なものでチームが強くなると指揮官に信頼感が湧いてきて胴上げの時はしっかり広岡を受けとめたという。広岡は不世出の勝負師と思うと話している。田淵は広岡の食事療法を受け入れた結果、体質が改善されたと述べている。 2年目にチームリーダーとしての教育を施した石毛宏典は「俺にとっても広岡さんの存在は大きい。1年目に新人王を取って、ああプロってこんなもんかって少し甘く考えていたんだけど、2年目に広岡さんが来たら下手だ、なんだとボロクソ言われて。腹の立ったこともあったけど『将来、指導者になりたければ自己流はダメだ。しっかりした理論を体にしみこませろ』と言われた」「正確に問題点を再現するので納得するしかなかった」「俺の中で昭和の名将は広岡達朗しかいない。監督人事は"有事"なんですよ。問題があって、それを解決して勝てるようにしなきゃならないから、その能力を持った人にやってもらうわけでしょう。あの時の西武はバラバラで、個々の選手の技術やレベルも十分じゃなかった。だから広岡達朗という男は個人のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った"技術屋"でもありました」「厳しい広岡監督に野武士たちが付いていくようになったのは、やっぱり広岡監督が技術理論に長けた人だったからではないかと思う」「ベテランは猛反発したけど、自分は中高大学と軍隊のような部活で育ったから(広岡野球に)違和感はなかった」と話している。広岡も石毛はリーダーシップのある選手と見抜き、天狗にならないよう意識的に挑発したと述べている。 広岡は一軍で指揮を執る一方で森、近藤、佐藤孝夫の3コーチらと共に二軍に足を運び、若い選手を鍛え上げた。その成果もあって1985年に一気に若手が台頭した。2012年阪神球団初のゼネラルマネジャーに就任した中村勝広は、この一軍首脳陣が二軍にいる期待の若手を直接指導して西武の黄金時代を築いた広岡の指導方式を導入した。 渡辺久信は「高校を卒業していきなりの管理野球にはとんでもないとこに来たと思ったけど、今思えばその経験が良かったと思う。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎をつくってもらったのかも知れない。蹴飛ばされたこともあったが、野球に関してあんなに厳しい人はいなかった。若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と話している。 2010年まで球界最高齢選手(47歳)として現役を続けた工藤公康は、広岡に"坊や"と可愛がられ、入団1年目から使われたことでも知られるが、西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているといい「管理野球が自分の基礎」「これまで何度もあった逆境を乗り越えられたのは、広岡監督に若いうちにプロ魂をたたき込まれたお陰」「玄米じゃなきゃ壊れてたかもしれない」「頭が上がらないというより、今でも顔を見たら直立不動です」「野球に懸ける情熱、思いはあまりにすごすぎてまねできない」などとと話している。なお熊谷組への就職を発表していた工藤をドラフト6位で強行指名し入団させた仕掛人は、長らく工藤自身含めて全て根本と信じられてきたが、実は根本は工藤指名には反対で、強行指名の仕掛人は広岡だったという。渡辺と工藤は広岡が一軍に置いたまま、特別教育した成果である。 金森栄治は「俺は玄米嫌いじゃなかった。今はみんな五穀米を食べている。広岡さんは時代の先を行っていたということ。野球のスタイルに関してもそう」と話している。伊東勤も基本の大事さを教えられた最も影響を受けた野球人として広岡を挙げ「(広岡の監督辞任直後)その時広岡さんのおかげでチームが強くなったことに感謝する選手はほとんどいなかったと思う。だが、やがて分かる。広岡さんに基礎をしっかり叩き込んでもらったからこそ、その後のライオンズがあったのだ」「広岡達朗さんが土台を作って寄せ集め球団を優勝に導き、西武になってから入団した生え抜きが勝つためにはこういう野球をやらなきゃいけない。という基本を引き継ぐ。戦力的に足りない部分を管理部長の根本陸夫さんがトレードで埋め、バランスのいいチームを作った」と述べている。 辻発彦は「広岡さんの下で野球がやりたくてアマチュアの時から西武志望でした」と話し、2016年10月の西武監督就任会見で、基本に立ち返ることの重要性を説いた広岡から授けられた座右の銘「稽古とは一から習い十を知り十よりかえる元のその一」を披露した。自ら手本を見せた広岡同様、自身も自ら手本を選手に見せる指導を行うと話した。 大久保博元は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している。伸び悩んでいた時期に「下手投げ理論」を基に再生させた松沼博久は、当時誕生した長男に「達」の一文字を付け、感謝の気持ちを表した。また、秋山幸二は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された長池徳士コーチによって育てられたもの。田尾安志は「広岡達朗監督が実力至上主義を徹底していたから。だからこそ、他チームの追随を許さない黄金時代を築くことができた」「広岡さんは選手を歯車の一つとしか思っていなかった。ベンチからバントのサインが出ると打球を転がす位置も決める。考えさせる隙を作らせなかった。広岡さんは二軍監督の方が適任だと思った。なぜなら野球が学べるから。当時の西武の選手は若手が多かったから広岡さんが標榜した管理野球は合ってました」と述べている。 ロッテコーチ時代に毎日のように広岡に怒られ指導者としての心構えをたたき込まれたという尾花高夫も、最も影響を受けた指導者として広岡を挙げており、2010年から2011年まで横浜ベイスターズで指揮を執った際、広岡と野村克也を手本にした野球をやりたいと話していた。2010年シーズン途中からヤクルト監督に就任した小川淳司も“広岡+野村”の考えをエッセンスに含めた小川流管理野球をやると語った。 チャーリー・マニエルはかつて広岡と激しく対立し、いざこざが絶えなかったが、現役引退後、アメリカ球界で監督と指導者としてキャリアを重ねていくうちに、「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」「今監督をしてチームを率いてやってみて、ヒロオカの言ったことは正しかったことがわかる。説得力があり、自分でお手本を示すことができ、選手の心理をつかんでやる気を出させる、そんな彼が示したボスの条件は、おれもまったく同意しているんだ。ニシモト(近鉄時代の監督だった西本幸雄)には悪いが、監督としておれが目指すのはヒロオカ式鉄の統制だ」などと発言、指導者としての自分があるのは日本での経験のおかげであると述べている。 一方、西武監督時代の選手だった江夏豊は広岡について「広岡さんの野球に対する考え方は素晴らしい。管理野球、管理社会の時代には最高の指導者といえるが、長期的にみた場合、広岡さんのやり方では一人一人の選手の個性を伸ばせない」と批判している。また「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記している。西武時代に「アイツは関西で投げると、どうも変なピッチングをする」という際どい発言をされた東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人」「すべて自分の考え方に全選手をあてはめ、従わせようとする人」と評している。ただし、東尾は「広岡監督に選手が反発とか、対抗しながら優勝していった。マスコミもそれにうまく乗っけてくれた。そこら辺から少しずつパ・リーグの記事も増えたから、本当の野球とは違った意味での魅力なのかね」などと話している。1982年の日本シリーズで広岡西武に敗れた中日ドラゴンズ・近藤貞雄監督は「広岡は鵜匠。対する私は鷹匠です。鷹は鵜と違ってヒモがない。どこかへ飛んで帰ってこないのがいる」と皮肉った。 森祇晶とはヤクルト、西武監督時代から盟友と呼べる関係であったが、森が西武を退団後は袂を分かっている。清原和博が覚醒剤で逮捕された事件で、広岡は「清原がこうなったのは、プロ野球で上に立つ人が『これはやっていい』『これはやってはいけない』と教えてこなかった結果なんですよ。縁あって入った球団の指導者は何をしていいかいけないかを選手に教えるべき。この事件は球界に対する警告だと思うね。コーチを責めるよりも、やっぱり監督だね。清原は高校を卒業してドラフト1位で西武に入った。当時の森監督は野球は教えたけど、社会人としての常識を教えなかった。親ができなかったことを、球団が教えないといけなかった。森監督がしっかりしていれば、清原はタイトルを取ってますよ。清原は『無冠の帝王』だもん。清原はまれにみる才能を持った男だったんですよ。僕が西武の監督だったころに入団していたらよかったが」と批判している。広岡によると、清原の扱いにてこずり将来を心配したコーチたちが森に「一度、社会常識など厳しく教え込むべきではないか」と進言したが、森はこれを無視して放任したという。また著書の中で「かつて私のあとに西武の監督を務めた森のように、打線に力があるのにバントばかりしては野球が面白くなくなる」と批判している。 広岡自身は自著『意識革命のすすめ』他で、歴代プロ野球で最も評価する監督として西本幸雄を挙げている。日本シリーズでは一度も勝利を得ることがなかった西本であるが、広岡は選手を一から育成し弱小球団だった阪急や近鉄をリーグ優勝にまで導いた西本の手腕を絶賛している。この西本への評価から、広岡の理想の指導者像が「勝つ」能力ではなく「育てる」能力をもった指導者であることがわかる。清武英利がゼネラルマネージャーを務めていた頃に育成重視の方針を採るも、その時代を除きFA制度その他で完成した選手しか集めなくなった現在の巨人に対しては厳しい批判を向けている。同じ広島出身で巨人の遊撃手としても後輩である二岡智宏は高く評価していたが、現在の遊撃手である坂本勇人は評価しておらず、しばしば著書などでその守備やプレースタイルに厳しい批評を行っている。
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