西武監督時代
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2004年より西武ライオンズ一軍監督に就任。オーナーの堤義明(当時)から監督を10年やってほしいと言われる。伊東本人の引退、松井稼頭央のメジャー移籍、アレックス・カブレラの死球による長期離脱などで苦戦が予想されたが、伊東の穴を細川亨が、松井の穴を中島裕之が、カブレラの穴をロッテから移籍したホセ・フェルナンデスが埋め、レギュラーシーズン2位からプレーオフ、日本シリーズを勝ち進み、2年ぶりのリーグ優勝、12年ぶりの日本一を達成。現役引退後即監督となったのは6人(藤田宗一、稲尾和久、長嶋茂雄、広瀬叔功、有藤道世、高橋由伸、井口資仁)いるが、2004年当時まではいずれも成績は5位(藤田、有藤)か最下位(稲尾、長嶋、広瀬)しかなく、このジンクスを破っての快挙だった(高橋は2位、井口は5位)。この年の中日との日本シリーズは「レオ流」対落合の「オレ流」決戦と言われた。 2005年はオリックス・バファローズとの3位争いを制し、借金2ながら3位に入った。プレーオフでは2位千葉ロッテマリーンズに2連敗で敗れ敗退した。 2006年7月19日、ソフトバンク戦(ヤフードーム)でクロスプレーの判定を巡り審判に暴力を振るったとして、選手時代・監督時代通じて初の退場処分を受けた。同年は日本ハムと1ゲーム差の2位となったが、プレーオフでは3位ソフトバンクの前に1勝2敗と敗れた。 2007年は怪我人が相次ぎ、交流戦で10連敗を喫するなど低迷、チームは26年ぶりのBクラスに陥落し結局5位でシーズンを終えた。このため、成績不振の責任を取り監督を辞任した。伊東曰く実際は「解任」だったとのことで、西武の監督として最後の試合となった同年10月5日のソフトバンク戦では(敵地での試合ということもあるが)球団から花束一つ用意されていなかったため、結局自分で花束を買い、ソフトバンクの王貞治監督(当時)に頼み込んで花束を渡されるセレモニーを自作自演したという。
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西武監督時代
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2017年より古巣・埼玉西武ライオンズの一軍監督に就任した。山川穂高、外崎修汰、新人の源田壮亮ら若手選手が頭角を現した他、選手の走塁・守備意識を身に付ける方針が奏功し得点・失策数の改善(得点:619→690。失策:101→88)に成功する。8月5日には59年ぶりの13連勝を記録した。8月までは3位に位置していたものの、9月からの東北楽天ゴールデンイーグルスとの2位争いを制しチームとして4年ぶりのAクラスとなるリーグ2位(79勝61敗3分)に貢献した。クライマックスシリーズ1stステージでは楽天と対戦したが、1勝2敗で1stステージでの敗退となり、シーズンを終えることになった。 2018年はチームを開幕から1年間首位の座を明け渡さなかった。9月30日にソフトバンクが敗れたことによって2008年以来、実に10年ぶりのパ・リーグ優勝を決めた。しかし、クライマックスシリーズのファイナルステージでは、そのソフトバンクにアドバンテージも含めた2勝4敗で敗れ、日本シリーズ進出を逃した。試合後に行われた本拠地最終セレモニーのスピーチでは悔しさを抑えきれず号泣した。 2019年、前年とは対照的に開幕から首位になれない日々が続く。投手陣の不調で我慢の日々が続くが、次第に調子を上げ9月11日、最大で8.5ゲーム差あったソフトバンクとのゲーム差を逆転、130試合目にしてシーズン初の首位となる。なお、シーズンで遅い首位初浮上は2001年西武の129試合目を抜くパ・リーグ記録であった。その後、マジック2で迎えた9月24日、142試合目でマジック対象チームであるソフトバンクが敗れ、西武が勝利したことによって2年連続のパ・リーグ優勝が決定した。球団の連続優勝は1997年、1998年の東尾修監督時代以来21年ぶりの快挙となったが、クライマックスシリーズではソフトバンクに全敗を喫した。 2020年は前年の本塁打王・山川穂高、首位打者・森友哉、打点王・中村剛也ら得点の中心が揃って低迷するという想定外の状況に陥ってしまう。それでも3年目の平良海馬がセットアッパーに活躍し、新人王を獲得するなど中継ぎ投手らの活躍で、10月27日の楽天戦では球団史上2番目のスピード記録となる監督通算300勝を達成した。しかし、11月8日の2位・ロッテとの直接対決に敗れ3位が確定。この年のパ・リーグクライマックスシリーズはファイナルステージのみの開催であったため、チームは2016年以来4年ぶりにCS進出を逃した。 2021年は栗山巧が下肢の張り、山川穂高が肉離れ、外崎修汰が骨折、源田壮亮が新型コロナウイルスに罹患と主力選手が序盤に相次いで登録を抹消された。新人の若林楽人が5月下旬までに20盗塁を決める活躍を見せていたが、左膝前十字靭帯損傷で離脱。これらの原因から得点はリーグ5位、チーム打率と本塁打はリーグ4位に終わった。投手陣も開幕から守護神を務めた増田達至の不振などが重なり、チーム防御率と失点はともにリーグ最下位に終わった。全試合を消化した10月26日時点では5位だったものの、同30日に日本ハムが勝利したことで球団42年ぶりの最下位に終わった。 優勝の可能性が消滅した10月5日に今季限りでの退任が有力とされる報道もあったが、同26日には2022年シーズンの続投が発表された。
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西武監督時代
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2008年より伊東勤の後任として一軍監督に昇格。球団主導で招聘された黒江透修をヘッドコーチに据え、自ら大久保博元・清家政和・熊澤とおるをコーチとして招聘、チーム力を底上げし前年度Bクラスのチームを就任1年目で優勝に導いた。 リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのはオグリキャップの引退レース(第35回有馬記念)以来だ」とのコメントを残した。ポストシーズンでは、クライマックスシリーズセカンドステージで日本ハムを4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って日本シリーズに進出し、日本シリーズでは巨人を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらにアジアシリーズも制覇し、功績を評価され2008年の正力松太郎賞に選出された。 伊東の場合はレギュラーシーズン2位でプレーオフ・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは森祇晶監督時代の1992年以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初となった。 2009年は黒江ヘッドコーチが退任し、さらに大久保打撃コーチが不祥事によって更迭されたことから、コーチ陣を刷新して迎えるシーズンとなったが、シーズン序盤に抑え投手のアレックス・グラマンが故障で戦線離脱するなど、中継ぎ・抑え投手が軒並み調子を落とし、チームは4位と低迷した。計14回のサヨナラ負けを記録したが、これはパ・リーグにおけるワースト記録であり、両リーグを通じては1988年の広島、1993年の中日ドラゴンズと並ぶワーストタイ記録であった。球団から続投を要請され、新たに2年契約を結んだ。 2010年はリリーフ陣の崩壊で接戦を落とした前年度の反省から一転、ロッテから移籍してきたブライアン・シコースキーを抑え投手に据え、岡本篤志・藤田太陽・長田秀一郎らをセットアッパーとして起用する継投パターンを確立した。9月16日時点では2位のソフトバンクに3.5ゲーム差の首位に立ち、優勝マジック4が点灯していた。しかし、9月18日 - 20日のソフトバンク3連戦で3連敗を喫し0.5ゲーム差に迫られ、9月23日の楽天戦で敗れて2位に転落。9月26日の日本ハム戦で敗れたことでソフトバンクの優勝が決定し、監督3年目は2位で終えた。また、チーム防御率は前身クラウンライター時代以来、33年ぶりのリーグ最下位に転落した。クライマックスシリーズファーストステージでロッテと対戦するが、2試合連続で延長戦に突入した末に2連敗を喫し、シーズンを終えた。その後、進退伺を提出したと報道されたが、「負けっぱなしではいられない」との本人の意向から、2011年シーズンの続投が決定した。 2011年は投手陣の不振が主因となって、前半戦を球団史上15年ぶりの最下位で折り返すこととなった。また、球団史上32年ぶりとなる最大15の負け越しを記録し、7月12日から25日にかけては球団史上初の3カード連続の同一カード3連敗を喫するなどチーム成績は低迷した。後半戦以降、新人の牧田和久を抑え投手として抜擢し、セットアッパーとして起用したミンチェ・岡本篤志の2人と併せて勝ち試合における継投パターンを確立して投手陣をてこ入れし、さらに中島裕之をキャプテンに任命してチームの建て直しを図った。また、3年目の浅村栄斗や新人の秋山翔吾といった若手野手を辛抱強く起用した結果、9月14日から27日にかけて2つの引き分けを挟んで10連勝を記録するなど9月の月間成績を19勝5敗とし、クライマックスシリーズ出場へ望みを繋いだ。3位のオリックスと1ゲーム差の4位で迎えた10月18日のシーズン最終戦(日本ハム戦)に勝利、同日オリックスが敗れたことから、わずか勝率1毛差で3位に浮上しクライマックスシリーズ出場を決めるとともに、最大15あった借金を完済し勝率5割以上の成績で公式戦全日程を終了した。また同日試合終了後、球団からの来季続投要請を受諾し、1年契約で2012年シーズンも指揮を執ることを表明した。クライマックスシリーズファーストステージにおいては日本ハムを2連勝で破りファイナルステージ進出を決めたが、ファイナルステージにおいてソフトバンクに0勝4敗で敗退した。 2013年、終盤までソフトバンク、ロッテなどのクライマックスシリーズ争いが続き、10月5日にCS進出が決定、9月29日から7連勝で2位に浮上し、最終戦は3位のロッテと2位とCSファーストステージ本拠地開催権をかけての試合で勝利し、8連勝で2位でシーズンを終える。しかしCSファーストステージではロッテに1勝2敗で敗れ、敗退が決まった翌日の10月15日に球団に監督辞任を申し入れ、球団に了承された。渡辺は記者会見で「今年の優勝が楽天に決まったときには、監督を退こうかなと思っていました」と述べた。
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