西武百貨店改革
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1992年6月、バブル崩壊が顕著となる中で、西武百貨店医療機器事業部における架空取引事件が発覚し、社員2名を含む計5名が逮捕される事態となった。社内は騒然とし百貨店の信用は大きく傷つき、経営危機はピークに達した。同年7月には堤から百貨店立て直しを要請され、代表取締役会長として復帰。同年10月には山中鏆(松屋、東武百貨店社長を歴任)が「百貨店業界はもちろんのこと、産業界を震撼させた」と評した、和田の筆による社内報『かたばみ』特別号である『西武百貨店白書』が刊行された。その内容は一貫して経営陣批判が綴られた檄文であった。これは静岡県で開催された幹部社員向けの研修が採録されたもので、同白書は西武百貨店社員を対象に発行されたものであったが、社外秘扱いされた形跡もなかったため流出し思わぬ波紋を呼んだ。 和田は西武百貨店改革にあたって社員の徹底した意識改革を求め、同年12月には一連の「お約束広告」の第一弾となる「まず、4月の新学期までに、商品の包み方の一番じょうずな百貨店になります」の文言が記載されたポスターが店頭等に貼り出された。さらに人員の整理や不採算店の閉鎖に加えて、1993年4月には全役員の降格人事を断行。自身は社長となり、社長であった水野誠一は副社長に降格した。また大ナタを振ってマネジメント改革も推し進め、チェーンオペレーションを百貨店に導入しようとしたが、各店舗で独自だった包装紙等を共通化するにとどまった。 そして1995年3月には既存店舗の業態革新の端緒として、食品売場を廃止してファッション専門大店への転換を図るべく有楽町西武の改装に着手。クラブ・オン ポイントシステムを先行導入しバックシステムに工夫を凝らした同店は、改装から2年後には一時的に単年度黒字に転換した。 不採算店舗の閉鎖を進めるうちに、1996年2月期にはなんとか4期ぶりに黒字に転換。その後4期連続で増収増益を達成させ、西武百貨店の経営の復調を印象づけた。 和田はこのほか、堤が「時代精神の根拠地」宣言の下に開館した西武美術館の後身となるセゾン美術館の閉館を決断し、1999年に同館は閉館した。和田は閉館にあたって新聞記者の取材に対し「美術館の役割は終わったんじゃないですか。僕はそう思います。」と述べた。百貨店文化事業部を取り仕切り、常務を歴任した紀国憲一は「そう言い切ったことは立派である思う。」と評した。取材では他に「あなたはイエスマンばかり重用していると言われているが」との新聞記者の問いかけに「自分をよく理解してくれる人間を重用しているだけだ。そういう人をイエスマンと呼んでもらっては困る」と返し、早大弁論部出身ならではの「詭弁」を展開することもしばしばであった。 米国デザイン会社キャリソン・アーキテクチャ社のプランニングのもとに、有楽町西武を皮切りに渋谷店、次いで静岡店と進めた店舗改装も、店内通路をあまりに広くとるキャリソンの手法が地方店では集客につながらず、また和田の提唱したチェーンオペレーションという名の商品部主導による画一的マーチャンダイジングの失敗とも相まって、改装後1年を待たずに売上高が前年割れを起こす店舗が続出し、改装したものの数年で閉鎖という閉店ドミノが生じる一因ともなった。後述する「再生の象徴」そごう心斎橋本店も開店後わずか4年で閉店している。
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