管理野球
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:03 UTC 版)
監督としての広岡は、徹底した「管理野球」で有名である。選手の役割分担を決め、それぞれの役割を完璧に果たすように教育し鍛え上げる。綿密にスケジュールを組んで選手を管理する。夜遊びや度を越した飲酒を禁止し、食事のメニューまで規制を加えた。「私の野球スタイルは、海軍の“軍律”と同じ。上官の命令への絶対服従が当たり前。ファンのため、チームのために自分の生活を賭けて死にもの狂いで戦うのに、『監督の指示に従えません』では勝てない」と述べている。集団行動の規律を重要視する組織野球は「管理野球」と呼ばれた。それがチームのためであり、選手自身のためだという論理である。広岡は、「万全のコンディションでプレーするためには当然のこと」「プロの選手にとって、グラウンドがすべて。いいかげんな体調でグラウンドに出てくることは許されない」と、その管理は選手の私生活にまで及んだ。 プロ野球選手の食生活に疑問を抱いたのは、指導者としてのスタートとなった広島カープのコーチ時代から。広島カープの日南キャンプは、晩飯に焼肉がでて、ビールがズラーッと並んで和気あいあいと食っている観光旅行のようだったという。根本にキャンプ中の禁酒を申し入れたら広島の選手は素直に聞いた。広島コーチ時代の二年間は厳しい基礎練習を繰り返した、広島伝統の猛練習の礎は当時の我々コーチ陣が作ったものと述べている。ヤクルト時代には、アキレス腱の持病を持つ若松勉が、遠征の移動のバスに乗るとすぐに缶ビールを買い込んでくるので、アルコールが故障にいいはずがないと言い聞かせた。若松は反発したがいい方に作用した。若松も「広岡さんにも良くしてもらいましたし、いろんなことを学び、大きな影響を受けました」と述べている。 ヤクルトでは、監督時代、チームに故障者があまりにも多く出たので、ある日神宮球場のベンチで『なんで、こう故障者が多いんだろう』と嘆いた時、顔はときどき見かけるが名前も知らない人から『食べ物が悪いんじゃないの。白米を玄米に変えるといいと聞きますよ』と声を掛けられる。これをきっかけに玄米を取り寄せ自分でも食べ始める。食物関係の書物を読み漁るなど勉強を重ね、やがて自然食に行きついた。その過程で医学博士の森下敬一と面識ができる。自身で1年にわたって玄米や自然食を摂取し続けた結果、効果があると判断し、選手たちに自然食を奨めるようになる。 また重量挙げなどのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的なウエイトトレーニングを体系立ててチームに導入している。ウエイトトレーニングを導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話ばかり始めたため、シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、体の回復とレベルアップを図るには基礎体力を付けることが一番いいという理由で始めた。選手には『シーズンの疲れは完全に休んだら抜けることは絶対に無い。人間の体は動かしていないと駄目だ』と言い渡し、選手から大反発を買ったものの、ユマのキャンプでサンディエゴ・パドレスのクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があってパドレスの選手たちが普通にやっているので、それを目撃して素直に納得したのだという。 1982年に西武監督に就任した際には、それまでの禁酒、禁煙、禁麻雀に加え、選手の食生活の改善から着手し、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限した(ただ、「あくまでも『制限』であって『禁止』ではない」と後に広岡はマスコミの誇張表現に対し牽制している)。上述の森下敬一を呼んでコーチ、選手全員を参加させ「夫がグラウンドでいい仕事が出来るよう参考に」と妻帯者の選手の夫人にも参加を呼びかけ講演会を行った。当時はスタミナ作りに肉はかかせない、特にスポーツ選手はたくさん食べないと肉体が維持できないという考え方が大勢を占めていたが、この講演に「肉は腐った食物である。牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るものなので、毒を飲んでいるようなもの」といった内容があったため、この講演会を報道で知った日本ハムの大社義規社長が烈火の如く怒り、親会社が日本ハムの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発した。実際は、これら肉や牛乳、ビタミン類が失われている白米より、玄米や雑穀類、豆乳などの方が栄養価が比較的高く自然治癒力もつきやすいという意味であり、肉食が全面的にいけないといっているのではなく食べ過ぎるなという意味で、魚介類、野菜、果物で栄養のバランスをとったほうが身体にいい、酸性偏重の食生活の改善という程度の要旨であった。 当時の日本ハムのキャンプには、本社から何十キロという新鮮な肉が差し入れされ、1日目がステーキ、2日目がトンカツ、3日目はすき焼きと肉中心のメニューを組んでいた。元々、豆乳はヤクルト監督時代にも導入したことがあったが、乳酸菌飲料を扱う親会社の強い圧力で一週間で中止に追い込まれていた。当時の野球選手は試合のあとはビールを飲んで肉を食うのが当たり前で、暴飲暴食しがちで、肉食に偏ることが多かった。広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している。広岡は西武監督時代に読んだロバート・ハースの書いた『食べて勝つ』(講談社、1985年)から大きな影響を受けたと話している。前述の「肉や牛乳は腐った食物」発言は、親会社の系列スーパーから大クレームを受けたが、広岡は親会社の意向を無視して自分の考えを貫き通した。その姿に、選手は"怖さ"を感じ、それがチーム変革のパワーとなった。 しかし、チーム内での反発も大きく、遠征時の外食が増えるなど首脳陣の目を盗むような事実があったことは、後に西武の監督を経験した森や渡辺久信からも指摘されている。大沢は著書で「ファイターズの主催試合の時は、時々、西武のベテラン選手達が俺の所に訪ねてきて、「白ご飯を食べさせてください」と頼みにきたから、食堂で喰わせてやったんだが、いい歳した体の大きな選手たちが「うまい。うまい」と泣きながら喰うわけさ」と述べている。特に森は西武監督就任時に、玄米食を白米食に移行し試合後の食前酒も解禁した。なお、広岡自身の食生活は何ら制限を行っておらず、51歳で(美食家が罹るとされる)痛風、70歳と80歳で2度脳卒中に罹患した。のちに広岡はホルモンをよく食べ、日本酒も毎晩1合7勺飲んでいたことを明らかにしている。 広岡には冷淡、冷酷イメージが付きまとうが、広岡をよく知る人たちは、それとは程遠い優しい神経の持ち主で、かつ冗談も多く愉快な面が多いと話す。1983年の日本シリーズで第5戦を落とし巨人に王手をかけられた夜、池袋サンシャインホテルでのミーティングでマイクを持って、開口一番「カラオケはないのか」と話し、土壇場に追い込まれたナインのショックを和らげる平常心のこの一言に、ナインの沈み切った胸中を一挙に打ち払っての笑い声は部屋中にこだました。本来ならあの状況であるだけに監督自身が一番固くなって、もう負けられぬという緊張感に陥ってしまうところを、さりげなく「カラオケはないのか」の発言でナインに笑いを求めたあたりの呼吸の良さに、当時西武のスコアラーだった尾張久次は唸ったという。この後、広岡は第6戦、第7戦における巨人-西武の投手陣の比較から始まって最後には「どう考えても西武に負ける要素はない」と断言し、力強い堂々たる意気込みに、思わずナインは引き込まれ、完全に広岡に暗示にかけられていたという。
※この「管理野球」の解説は、「広岡達朗」の解説の一部です。
「管理野球」を含む「広岡達朗」の記事については、「広岡達朗」の概要を参照ください。
- 管理野球のページへのリンク