プロ球団としての土台作り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 02:01 UTC 版)
「日本運動協会」の記事における「プロ球団としての土台作り」の解説
翌1921年(大正10年)、まずは本拠地球場となる芝浦球場を建設し、同時に新聞紙上に広告を出して選手の公募を行った。応募者の総数は200人以上だったが、職業野球というものが成立し得るのかどうかが疑問視されていた時代にあって、早稲田や慶應などといった大学のOB・現役選手の応募は1人もなかった。野球の技量だけでなく、学生野球選手達の模範足りうるような人格を持っているかということも重要視された採用面接を経て採用された選手は14歳から27歳までの14人。初代主将には、後に東京巨人軍入りする山本栄一郎が選ばれた。 こうして選手も集まり、1921年(大正10年)秋、芝浦球場に合宿所(兼クラブハウス)が完成したことをきっかけにチームは本格的に始動する。ただし、結成から約1年の間は、練習に徹し対外試合は一切行なわれなかった。この間、平行して英語、数学、簿記などの勉強も行なわれている。これは、「大学選手と対等な学力、社会常識がなければプロ野球を世間に認めさせることができない」という考えと、野球ができなくなった時に役に立つように、という考えから行なわれたものである。これについて、協会で捕手を務めていた片岡勝は後に「外出にはいちいち河野先生の許可が必要でした(中略)プロ野球選手の合宿というより、きびしい学校の寄宿舎生活のようでした(中略)いまでいう管理野球そのものですが、それを不満に思うものは一人もいませんでした。日本のプロ野球のリーダーになるのだから、これくらいの苦労は当たり前だ、と思っていました」と語っており、また、山本栄一郎は生前「あのころは本当に幸せだった」と語っていたという。
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