プロ漫画家としてとは? わかりやすく解説

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プロ漫画家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:08 UTC 版)

楳図かずお」の記事における「プロ漫画家として」の解説

1955年五條高校卒業。親の言いつけ奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験した失敗同年、『兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化後者太古の地球舞台取った壮大な叙事詩的SF作品以後貸本漫画多く発表し人気作家となる1961年貸本短編誌『虹』29号に発表した「口が耳までさける時」において「恐怖マンガ」という言葉作った1963年8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である佐藤まさあき誘われて上京池袋にある佐藤事務所居候として3年間住む。以後目白高田馬場経て吉祥寺(現在)に住すこのころ本格的に俳優志し年齢を下に詐称して劇団ひまわり青年部入り、『兵隊やくざ』(大映1965年)や太田博之映画NHK朝の連続ドラマ出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信勧められたのに嫌気差して退団したまた、当時俳優志望だった久保新二同居して毎晩ひとつの布団寝ていたこともある。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な着てた楳図もホモじゃねえから」という。 1966年講談社少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載したねこ目少女」「へび少女」等がヒットし恐怖マンガ家として全国的に知られるうになるこの後『週刊少年マガジン』講談社)、『週刊少年キング』少年画報社)等などでは少年向けSF作品、「猫目小僧」など恐怖ものを連載。最も多忙な時期月刊誌週刊誌あわせて5本の連載作品持っていた。 1971年主たる作品発表の場を、『週刊少年サンデー』(小学館)にしぼる。1975年『漂流教室』ほか一連の作品第20回小学館漫画賞受賞同年自作自演LP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表また、この後ギャグ作品まことちゃん」の連載あいまってバンド活動展開する作詞家として郷ひろみ近田春夫楽曲作詞を手がけたこともある。 1982年、「わたしは真悟」を小学館ビッグコミックスピリッツ』に連載開始これに伴い主たる作品発表の場を同誌に移す。

※この「プロ漫画家として」の解説は、「楳図かずお」の解説の一部です。
「プロ漫画家として」を含む「楳図かずお」の記事については、「楳図かずお」の概要を参照ください。

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