プロ漫画家として
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1955年、五條高校卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したが失敗。同年、『森の兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化、後者は太古の地球に舞台を取った壮大な叙事詩的SF作品。以後、貸本漫画を多く発表し人気作家となる。 1961年、貸本短編誌『虹』29号に発表した「口が耳までさける時」において「恐怖マンガ」という言葉を作った。1963年8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である佐藤まさあきに誘われて上京。池袋にある佐藤の事務所に居候として3年間住む。以後、目白、高田馬場を経て、吉祥寺(現在)に住す。このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して劇団ひまわりの青年部に入り、『兵隊やくざ』(大映、1965年)や太田博之の映画やNHKの朝の連続ドラマに出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団した。また、当時俳優志望だった久保新二と同居して毎晩ひとつの布団で寝ていたこともある。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってたワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な服着てた楳図もホモじゃねえから」という。 1966年、講談社の少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載した「ねこ目の少女」「へび少女」等がヒットし、恐怖マンガ家として全国的に知られるようになる。この後、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年キング』(少年画報社)等などでは少年向けのSF作品、「猫目小僧」など恐怖ものを連載。最も多忙な時期で月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていた。 1971年、主たる作品発表の場を、『週刊少年サンデー』(小学館)にしぼる。1975年、『漂流教室』ほか一連の作品で第20回小学館漫画賞受賞。同年、自作自演のLP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表。また、この後、ギャグ作品「まことちゃん」の連載とあいまって、バンド活動を展開する。作詞家として、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたこともある。 1982年、「わたしは真悟」を小学館『ビッグコミックスピリッツ』に連載開始。これに伴い、主たる作品発表の場を同誌に移す。
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