プロ歌手として
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1947年、ペイジは「Confess」という、他の歌手による返答のパートを含む歌を録音した(この歌はほかにドリス・デイとバディ・クラークによるデュエットのバージョンによっても知られる)。彼らには別の歌手を起用するだけの予算がなかったため、リールはペイジにこのパートも自身で歌うよう進言した。おそらくは一つのレコードにおいて二つのパートを歌うという目新しさも相俟って、この歌はチャートの20位に入るヒットを記録した。 当時のマーキュリー・レコードではミッチ・ミラー(Mitch Miller、後にコロムビア・レコードで同社を1950年代のポピュラー音楽における支配的な地位にまで押し上げた手腕でも知られる)がA&Rを務めていた。「Confess」の録音後、ペイジ(若しくはリール、或いはその両方か)は一人での多重唱というアイディアがすっかり気に入り、一曲全てを四重唱として歌いたいと申し出た。ミラーはこれに懐疑的だったとされるが最終的には許可し、ペイジ一人の四重唱によって録音された「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」は大ヒットとなり、彼女にとって初のミリオンセールスを記録した。メアリー・フォード (Mary Ford) やジェイン・タージー (Jane Turzy) もこの手法を用いていたことが知られるようになったが、ペイジこそは一つの楽曲(「Confess」において)で多重録音の手法を用いた最初の歌手である。彼女のいくつかのレコードでは "Vocal by Patti Page, Patti Page, and Patti Page" とクレジットされており、特に「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」には "The Patti Page Quartet" と表記されている。 ペイジが最初にヒット・チャートの1位を記録したのはモーリス・ラヴェルのボレロを翻案した「All My Love」だった。この曲は1950年に5週間にわたって1位の座にあった。彼女の最大のヒット曲は同じく1950年にリリースされた「テネシーワルツ」である。この曲は同年に13週間にわたって1位の座にあり、累計売上げ枚数は600万枚に達しビルボード誌のヒット・チャートで1950年代最大のヒットを記録した。 ペイジは1953年にボブ・メリル (Bob Merill) によるナンセンス・ソング、「(How Much Is) That Doggie in the Window?」で大ヒットを記録している。これはヴィクトリア期のイギリスで流行したヴォードヴィル風の笑劇に合わせて演じられるスタイルの歌を翻案したものである。ペイジはこれを1952年に録音し、ビルボード誌およびキャッシュボックス誌の1953年のチャートで1位を記録した。 1963年にペイジはマーキュリー・レコードを去り、コロムビア・レコードに移籍した。この年の5月に来日し東京と大阪で日本初コンサートを行った。コロムビア時代の1965年には現在のところ彼女にとって最後のトップ10ヒットとなっている『Hush, Hush, Sweet Charlotte』(同名の映画、邦題「ふるえて眠れ」のテーマ曲)を発表した。その後ペイジは1971年にマーキュリーに戻ったが、1973年には再びコロムビアに移籍して当時同社の傘下にあったエピック・レコードに録音した。
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