クラウン・西武時代
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広島退団後は、鉄鋼業を友人と営む傍ら朝日放送解説者(1973年 - 1977年)を務めていた。 1976年には新日鐵堺の臨時コーチを務め、入社直後の尾花髙夫を指導し、投球練習を見ると「そんなフォームで投げとっては、早いボールも変化球も投げられん」と指摘した。1977年オフには俳優に転向していた安藤昇から「クラウンライターライオンズの仕事を手伝ってくれ」という電話が入った。球団関係者ではなく友人の安藤からの要請に根本は戸惑ったが、「球団から正式に要請がきたら受諾してほしい」とクラウンライターの幹部と親しい安藤が根回しをしてきたと根本は理解。 1978年に坂井保之球団社長から招聘されクラウンライターライオンズの監督に就任。ここでも就任直後から選手に猛練習を課して低迷するチームの建て直しを図ろうとするが、春季キャンプ初日に江田孝コーチがグラウンドで体調不良を訴え、病院へ運ばれたが、そのまま急逝。再起を期したばかりの悲劇に、選手達は必死に前を向いたものの、投手陣にはアクシデントが続いた。エースの東尾修は右脇腹を痛め、速球派右腕の浜浦徹が血行障害で離脱、前年には先発としても活躍して9勝を挙げていた永射保は肝炎に苦しむ。さらに、シーズン中にもかかわらず、絶えず身売りの噂がささやかれたが、そんなチームの起爆剤として打線が奮起する。根本監督の積極的な起用も打線を活気づけ、開幕戦では2年目の立花義家を3番打者に抜擢。立花は「19歳の三番打者」と騒がれ、その後は打順こそ2番に回ったものの、右翼のレギュラーに定着。かつて近鉄で“18歳の四番打者”と言われた土井正博は、新たに「34歳の四番打者」として5月14日の日本ハム戦(後楽園)から6試合連続本塁打でパ・リーグ記録に並び、通算400本塁打にも到達した。中日ではトラブルメーカーであったウィリー・デービスも3番打者として機能し、真弓明信も初めて1番打者としてレギュラーとなり、前年の外野から本職の遊撃に戻って本領を発揮する。そんな真弓と、指名打者として打率.303でリーグ9位の土井がベストナインに選ばれた。投手陣では、東尾が徐々に調子を上げて、近鉄の鈴木啓示と最多勝を争う奮闘。最終的にはタイトルこそ逃したものの23勝を挙げて自身2度目の20勝をクリアしたが、東尾に続いた山下律夫が6勝、五月女豊が2勝という投手陣では長期戦を勝ち残れなかった。前期は4位に滑り込んだものの、後期は9月に10連敗を喫するなど5位。シーズン通算でも3年連続Bクラスの5位に終わった。球団の西武への売却、そして本拠地の移転が報じられたのは10月12日、正午のことであった。2年連続最下位のチームを率いたが5位に終わり、同年シーズン終了後に国土計画の堤義明社長が球団を買収し球団名が西武ライオンズに変更される。根本はそのまま監督として球団に残留、新生西武ライオンズ初代監督となる。 西武監督時代は球団管理部長も兼任してフロントの責任職に就任し、西武球団代表の坂井、球団スカウト部長の浦田直治らと共にチーム作りを急速に進めていった。新生西武の1978年のドラフト会議で森繁和を1位に指名。巨人とドラフト外で松沼博久・雅之の松沼兄弟の争奪戦を制して獲得に成功。そして阪神タイガースから田淵幸一・古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。 1979年の春季キャンプはアメリカのフロリダで2か月近くにわたって実施する。上記の戦力補強ぶりから戦前の西武の評価はまずまずだったが、開幕から12連敗を記録し、結局1979年は最下位に終わる。飯田徳治、別当に次いで史上3人目の両リーグ最下位監督となった。 1980年の後期ペナントレースでは近鉄、ロッテオリオンズ、日本ハムファイターズと優勝争いを演じ話題となる。1980年のドラフト会議で石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安部理の4名を指名し獲得。ドラフト外で秋山幸二を巨人等との争奪戦の末に獲得に成功。そして、当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤を所沢高等学校に転校させ、西武の練習生とした。翌年のドラフト会議で西武は伊東を1位指名した他、プロ入りを拒否して社会人野球・熊谷組への入社が内定していた名古屋電気高の工藤公康を6位で指名し、説得の末入団にこぎつけた。 1981年限りで監督を退任して管理部長に専任。そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡を招聘する。また、ヘッド格のバッテリーコーチとして森祇晶も招聘した。こうして根本は、オーナーの堤に「私は何も現場のことは分からないから全部根本さんに任せてある」と言わしめるほどの実質的なGMとして西武黄金時代を築いていくこととなる。 広岡は1982年、1983年とライオンズを連続日本一に導く。特に1983年の巨人と日本シリーズは「球界の盟主の座を賭けた決戦」と喧伝(けんでん)され、巨人を4勝3敗で破った。こうして西武ライオンズの快進撃は全国的に有名となるが、根本は監督の広岡とチームの補強方針を巡って対立するようになる。そして夕刊紙などに広岡のチーム批判とも取れるコメントが掲載されるようになり、両者の溝が深くなっていった。 1984年は3位に終わる。 1985年は再びリーグ優勝する。しかし日本シリーズは阪神に2勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、広岡は健康面での不安を理由に辞任する。 広岡の後任には、オーナーの堤は後任監督に田淵を望んでいたが根本が「今の西武は人気監督を据えるより、半永久的に優勝争いができるしっかりとした球団作りが大事。勝てる野球ができる人で加えて西武の流れを熟知している人。それでいて広岡野球の次の段階に進めることのできる人」という理由で1984年にコーチを辞任していた森が監督に就任した。1985年のドラフト会議では、最大の目玉だった清原和博を根本自身がくじを引き当て1位指名に成功。清原はこの後4番打者として活躍。森は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝を逃したのが1989年のみ、6度の日本一に輝くなど西武ライオンズの黄金時代を築いていった。1989年シーズン途中で一軍打撃コーチの土井正博が麻雀賭博で逮捕され、球団代表の坂井が解任される。坂井は翌年福岡ダイエーホークスの球団代表に就任する。
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