クラウン・西武時代とは? わかりやすく解説

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クラウン・西武時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:52 UTC 版)

根本陸夫」の記事における「クラウン・西武時代」の解説

広島退団後は、鉄鋼業友人と営む傍ら朝日放送解説者1973年 - 1977年)を務めていた。 1976年には新日鐵堺の臨時コーチ務め入社直後尾花髙夫指導し投球練習を見ると「そんなフォーム投げとっては、早いボール変化球投げられん」と指摘した1977年オフには俳優転向していた安藤昇から「クラウンライターライオンズ仕事手伝ってくれ」という電話入った球団関係者ではなく友人安藤からの要請根本戸惑ったが、「球団から正式に要請がきたら受諾してほしい」とクラウンライター幹部親し安藤根回しをしてきたと根本理解1978年坂井保之球団社長から招聘されクラウンライターライオンズ監督就任。ここでも就任直後から選手猛練習課して低迷するチーム建て直し図ろうとするが、春季キャンプ初日江田孝コーチグラウンド体調不良訴え病院運ばれたが、そのまま急逝再起期したばかりの悲劇に、選手達は必死に前を向いたものの、投手陣にはアクシデント続いたエース東尾修は右脇腹痛め速球右腕浜浦徹血行障害離脱前年には先発としても活躍して9勝を挙げていた永射保肝炎苦しむ。さらに、シーズン中にもかかわらず絶え身売りの噂がささやかれたが、そんなチーム起爆剤として打線奮起する根本監督積極的な起用打線活気づけ、開幕戦では2年目立花義家3番打者抜擢立花は「19歳三番打者」と騒がれその後打順こそ2番回ったものの、右翼レギュラー定着。かつて近鉄で“18歳四番打者と言われ土井正博は、新たに34歳四番打者」として5月14日日本ハム戦(後楽園)から6試合連続本塁打パ・リーグ記録並び通算400本塁打にも到達した中日ではトラブルメーカーであったウィリー・デービス3番打者として機能し真弓明信初めて1番打者としてレギュラーとなり、前年外野から本職遊撃戻って本領発揮する。そんな真弓と、指名打者として打率.303でリーグ9位の土井ベストナイン選ばれた。投手陣では、東尾徐々に調子上げて近鉄鈴木啓示最多勝を争う奮闘最終的にタイトルこそ逃したものの23勝を挙げて自身2度目20勝をクリアしたが、東尾続いた山下律夫が6勝、五月女豊が2勝という投手陣では長期戦を勝ち残れなかった。前期は4位に滑り込んだものの、後期9月10連敗喫するなど5位。シーズン通算でも3年連続Bクラスの5位に終わった球団西武への売却、そして本拠地移転報じられたのは10月12日正午のことであった2年連続最下位チーム率いたが5位に終わり同年シーズン終了後国土計画堤義明社長球団買収し球団名西武ライオンズ変更される根本そのまま監督として球団残留新生西武ライオンズ初代監督となる。 西武監督時代球団管理部長も兼任してフロント責任職に就任し西武球団代表の坂井球団スカウト部長の浦田直治と共にチーム作り急速に進めていった。新生西武1978年ドラフト会議森繁和を1位に指名巨人ドラフト外松沼博久雅之松沼兄弟の争奪戦制して獲得成功。そして阪神タイガースから田淵幸一古沢憲司を、ロッテから山崎裕之トレード獲得。さらにロッテ自由契約となった野村克也獲得1979年春季キャンプアメリカフロリダで2か月近くわたって実施する上記戦力補強ぶりから戦前西武評価まずまずだったが、開幕から12連敗記録し結局1979年最下位に終わる。飯田徳治別当次いで史上3人目の両リーグ最下位監督となった1980年後期ペナントレースでは近鉄ロッテオリオンズ日本ハムファイターズ優勝争い演じ話題となる。1980年ドラフト会議石毛宏典岡村隆則杉本正安部理の4名を指名し獲得ドラフト外秋山幸二巨人等との争奪戦の末に獲得成功。そして、当時熊本工業高校定時制通学していた伊東勤所沢高等学校転校させ、西武練習生とした。翌年ドラフト会議西武伊東1位指名した他、プロ入り拒否して社会人野球熊谷組への入社内定していた名古屋電気高工藤公康を6位で指名し説得の末入団こぎつけた1981年限り監督退任して管理部長に専任。そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡招聘するまた、ヘッド格のバッテリーコーチとして森祇晶招聘した。こうして根本は、オーナーの堤に「私は何も現場のことは分からないから全部根本さんに任せてある」と言わしめるほどの実質的なGMとして西武黄金時代築いていくこととなる。 広岡1982年1983年ライオンズ連続日本一に導く。特に1983年巨人日本シリーズは「球界盟主の座を賭けた決戦」と喧伝けんでん)され、巨人を4勝3敗で破った。こうして西武ライオンズ快進撃全国的に有名となるが、根本監督広岡チーム補強方針巡って対立するうになる。そして夕刊紙などに広岡チーム批判とも取れコメント掲載されるようになり、両者の溝が深くなっていった1984年3位に終わる。 1985年は再びリーグ優勝する。しかし日本シリーズ阪神に2勝4敗で敗れたシリーズ終了後広岡健康面での不安を理由辞任する広岡後任には、オーナーの堤は後任監督田淵望んでいたが根本が「今の西武人気監督据えるより、半永久的に優勝争いができるしっかりとした球団作りが大事。勝て野球ができる人で加えて西武流れ熟知している人。それでいて広岡野球次の段階進めることのできる人」という理由1984年コーチ辞任していた監督就任した1985年ドラフト会議では、最大目玉だった清原和博根本自身がくじを引き当て1位指名成功清原この後4番打者として活躍は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝逃したのが1989年のみ、6度日本一に輝くなど西武ライオンズ黄金時代築いていった。1989年シーズン途中で一軍打撃コーチ土井正博麻雀賭博逮捕され球団代表坂井解任される。坂井翌年福岡ダイエーホークス球団代表就任する

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