選手として活躍とは? わかりやすく解説

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選手として活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 08:04 UTC 版)

藤原敬生」の記事における「選手として活躍」の解説

当時全国有数強豪校であった明大中野高校での練習明治大学講道館への出稽古多かったが、藤原含め1年生最初ひたすら受け身練習課された。「受け身徹底的にやる事で首の周囲腹筋背筋大腿筋鍛えられた」と藤原入部早々5月には台東区紅白試合中学時代上回る17抜き離れ業やってのけた。しかし、自分の兄や、同じ和気中学校から一緒に明大中野高校進学した同級生共同生活をしてはいたものの、15歳藤原1年次7月頃までホームシックにも掛かり金鷲旗大会への出場のため九州に向かう時に山陽本線和気駅通った際には故郷へ想い一入ひとしお)だったという。それでも夏の合宿終えて9月新人戦始まった頃から藤原快進撃始まり、得意とする左組からの払腰磨きをかけて高校2年次のインターハイでは個人戦重量級準々決勝戦まで進出しベスト8高校3年次には、入学時に身長187cm・体重67kgだった体格身長190cm・体重100kgまで増量しインターハイでは前年同様に重量級出場して決勝進出。しかし決勝戦相対した天理高校角田博英は体重150kgの巨漢で、藤原は「組んだ瞬間に『あぁ重い...』と感じた」「自分の力では動かせませんでした」と語っている。結果判定負で、高校時代締め括りとしてはインターハイ準優勝という結果であった1977年3月高校卒業し明治大学進学大学時代山下泰裕率い東海大学黄金時代と丁度重なっていたためにあまり目立った成績はないが、それでも新たに習得した支釣込足武器個人戦では1978年2月全日本新人体重別選重量級準優勝シニアでも1980年4月講道館杯3位といった戦績が光る。 1981年4月大学卒業する新日本製鐵所属し全日本実業団体対抗大会で同社の6連覇貢献同時に東京代表で出場した国民体育大会でも4度優勝果たした同社には後に滝吉直樹須貝等らの後輩続き藤原その人毎に鎬を削った個人戦では9年間の全日本強化選手通じて全日本選手権5年連続を含む6回出場キャリア持ち1983年には準決勝戦山下泰裕5段に敗れたものの3位入賞大会9連覇達成した絶対王者山下引退直後1986年同大会では10年振の全日本王者が誰になるかという事注目を集める中、藤原磯田雅博5段と桶川4段破って順調に勝ち上がり準決勝戦では優勝候補筆頭世界王者斉藤仁5段を降して優勝確実視されたが、決勝戦新進気鋭正木嘉美5段にあっさり敗れて悲願の初優勝成らず過去の対正木戦績では圧倒的に分が良かっただけに日本武道館には暫くどよめき起こった国際大会において1983年太平洋選手権優勝加えフランス国際柔道大会趙容徹払腰一閃1982年アメリカ国際では河亨柱支釣込足破った試合等が特筆される

※この「選手として活躍」の解説は、「藤原敬生」の解説の一部です。
「選手として活躍」を含む「藤原敬生」の記事については、「藤原敬生」の概要を参照ください。

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