選手と監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 14:48 UTC 版)
「サッカーにおけるイングランドとスコットランドのライバル関係」の記事における「選手と監督」の解説
そのライバル意識にかかわらず、スコットランド・イングランド間での選手・監督の往来は激しい。イングランド人選手がスコットランドのクラブでプレーすることも多いが、歴史的に、スコットランド人選手がより裕福なイングランドのクラブに移籍することが多い。イングランドの多くの名門クラブは、その歴史にスコットランド人が深く関わっている。ダブル(2冠)を達成した1960-61シーズンのトッテナム・ホットスパーFCには、ビル・ブラウン、デイヴ・マッカイ、ジョン・ホワイトの3人のスコットランド人選手がいた。デニス・ローはマンチェスター・ユナイテッドFCの歴史上第2位の得点数を挙げた。1970年代から1980年代にかけて黄金期を築いたリヴァプールFCには、ケニー・ダルグリッシュ、グレアム・スーネス、アラン・ハンセンなどのスコットランド人選手がいた。マンチェスター・Uとリヴァプールはイングランドで最も成功を収めた2クラブであるが、スコットランド人のマット・バズビー監督とビル・シャンクリー監督の功績は外せない。 スコットランドでのプレー経験がある名の知られたイングランド人選手は数少なかったが、1985年に起こったヘイゼルの悲劇に対する措置として、イングランドのクラブは5年間国際試合への参加を禁じられたため、1980年代後半には多くのイングランド人選手がスコットランドのクラブに流入し、テリー・ブッチャー、トレヴァー・スティーヴン、ゲイリー・スティーヴンス、クリス・ウッド、マーク・ヘイトリーなどの著名イングランド人選手がレンジャーズFCでプレーした。この時代のレンジャーズはマンチェスター・Uよりも裕福であり、それゆえにイングランド最大のクラブよりも高額の年俸をオファーできた しかしプレミアリーグ発足後には、レンジャーズやセルティックFCより裕福なイングランドのクラブが増加した。 近年は名のあるイングランド人選手がスコットランドでプレーすることはないが、セルティックのクリス・サットンとアラン・トンプソンは2003年のUEFAカップ準優勝に大きく貢献した。また近年は、イングランドの主要クラブへのスコットランド人選手の流入数が減少している。国際大会におけるスコットランド代表の競争力は低下し続けており、イングランド・プレミアリーグはブリテン諸島ではなく世界中からスター選手を惹きつけている。選手の枯渇とは対照的に、スコットランド人指導者はイングランド・プレミアリーグの主要クラブで地位を確立しており、アレックス・ファーガソン(元マンチェスター・ユナイテッドFC)やデヴィッド・モイーズ(マンチェスター・ユナイテッドFC)やアレックス・マクリーシュ(アストン・ヴィラFC他)などがイングランドのクラブを率いている。2010年、ファーガソン監督はイングランド代表監督就任オファーを拒否していたと発言したが、その理由のひとつとして、「スコットランド人がイングランド代表監督に就任するには凄まじく不利な条件がある」ことを挙げた。また、何人かのイングランド人監督はスコットランドのクラブで監督経験があり、ジョン・バーンズ(セルティック)やトニー・モウブレイ(セルティック)やテリー・ブッチャー(インヴァネス・カレドニアン・シッスルFC)などが知られている。イングランド出身のジョー・ベイカーは、イングランドのフットボールリーグでのプレー経験なしにイングランド代表に選出された初めて(そして唯一)の選手である。ベイカーがプレーした当時(1950年代後半から1970年代前半)は出身国の代表でしかプレーすることができなかったが、やがてこの規定が緩和され、スコットランド人の祖父母や父母がいれば、イングランド出身でもスコットランド代表でプレー可能となった。これにより、アンディ・ゴラム(1985年スコットランドA代表デビュー)やスチュアート・マッコール(1990年スコットランドA代表デビュー)はイングランド出身でありながらスコットランド代表でプレーした。
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