選手とオーナーの対決
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「1969年のメジャーリーグベースボール」の記事における「選手とオーナーの対決」の解説
前年に選手の年金問題からこじれた選手会とオーナー側の交渉は、前年12月にコミッショナーを解任させた後にオーナー側は年金基金に繰り込む金額を410万ドルから510万ドルに引き上げる提案を示したが、選手会事務局長のマービン・ミラーはそれに対する賛否を選手全員の投票に委ねたが、その結果賛成7票・反対491票の大差で否決された。オーナーにとっては否決ということよりも満票に近い形で選手たちがミラーを支持したことが衝撃であった。年明けの1969年2月3日、ニューヨークで選手総会が開かれて、選手会として年金問題が解決するまで69年度の契約を拒否して春季キャンプに参加しないことを申し合わせた。その後、2月17日にオーナー側から年金基金に530万ドルにする提案があったが、24球団の選手代表は満場一致でこれを否決した。そして1週間後の2月24日に再びニューヨークに集まり深夜まで協議して翌2月25日に選手側の実行委員会とオーナー側の委員会との間でようやく合意が成立した。その内容は①年金基金には年間545万ドル繰り入れる、②年金の獲得資格は1959年まで遡って5年から4年に短縮する、③年金の受給額は月額で50ドル×実働年数(10年まで)+20ドル×11年目からの実働年数とすること、④他に医療費・保険料・寡婦扶助・出産費・健康保険料などの負担は全て年金基金から賄うこと、を規定した。この年金の受給開始年齢は50歳からで金額調整して45歳からも受け取ることが可能となった。 この合意に至った1969年2月4日にコミッショナーの後任に弁護士のボウイ・キューンが第5代目として就任した。波乱の幕開けは翌1970年に起こった。 この年のシーズン終了後の10月6日にカージナルスのカート・フラッド中堅手は球団事務局からフィリーズへの移籍を通告された。1958年にレッズから移籍してから3割を7回記録し首位打者にはなれなかったが1964年には最多安打211本を打ち、ピッチャーの年だった前年1968年は打率.301でメジャーリーグ全体で6人しかいなかった3割打者であった。守ってはゴールドグラブ賞を1963年から7年連続受賞し、かつチームの主将で攻守の要であった。しかしフラッドはこの前年にオーナーのガッシー・ブッシュ(オーガスト・ブッシュ)を怒らせていた。年俸を7万2,500ドルから7万7,500ドルへのアップを球団が提示したところ9万ドルを要求してきた(3万ドルアップを要求したという説もある)。リーグ優勝した前年秋に「スポーツイラストレイテッド」誌にカージナルスの有力選手の年俸額がスッパ抜かれて、カージナルスは球界で最も高価なチームと見られていた。結局フラッドは年俸9万ドルを満額回答で得たが、オーナーは選手に高い給料を払っているのに感謝の気持ちが無く、ファンはかつてほどには選手に敬愛の念を持っておらず、金儲けに走っていると見られていると感じていた。1969年のシーズン前に2年前リーグMVPに選ばれたオーランド・セペダをブレーブスに放出し、それでもこの年のカージナルスは地区優勝出来る戦力のはずだったが、東地区4位に終わった。そしてシーズン終了後に守備の要だったティム・マッカーバー捕手とカート・フラッド、ジョー・ホーナー、バイロン・ブラウンの4選手をまとめて、ディック・アレン、オクタビオ・ローハース、ジェリー・ジョンソンのフィリーズの3選手と交換でフィリーズに放出を決めた。フラッドはこのトレードを拒否し、そして年末にコミッショナーにトレードの不当性を訴えたが、ボウイ・キューンはこれを却下した。 翌1970年1月16日にフラッドは裁判に訴えた。このフラッド訴訟は連邦最高裁判所までいった。カート・フラッド事件の始まりであった。
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