選手との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:18 UTC 版)
野茂英雄をはじめ、長谷川滋利やイチロー、田口壮など多くの日本人メジャーリーガーを輩出した。そして、全員が「師匠」「尊敬する人」と公言しており、彼らに多大な影響を与えている。 イチローはメジャー移籍後、キャンプ中の仰木に会うためだけにわざわざ宮古島まで出向いたほどで、その尊敬ぶりは崇拝に近いものであり、記者の質問に「僕の唯一人の師匠ですから」とまで答えている。仰木のオリックス監督就任直後、登録名を「イチロー」と改名するという仰木の提案に、「今はいいですが、この先、子供ができて父親がイチローではおかしいでしょう」と譲らなかったイチローに対し、仰木が佐藤和弘を呼び寄せ、「おまえは来年から登録名を佐藤から別のものにしよう。おまえの頭はパンチパーマだからパンチでいこう」と指示して佐藤は快諾し、「先輩の佐藤が変えるんだから、おまえも来年からイチローで登録だ」と強引に納得させたエピソードがある。 近鉄時代は確執があると噂された吉井だが、近年は「あの時代は自分が若かったせいで、仰木さんの考えが分かっていなかっただけ。仰木さんに要らないと言われた時が、自分の引退の時」と語っていた。 1995年のインタビューにて、野茂とイチローの共通点を問われた際、「頑固さ」をあげている。 2005年に仰木がオリックスの監督として復帰した時に、イチローが自らの背番号51番を「監督につけてほしい」と勧めたが、「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられへん」と断った(イチローが生まれる前の話だが、仰木自身は1970年に近鉄の守備走塁コーチに就任した際に51番をつけたことがある)。 清原和博は、自分の最後のチームになったオリックスに誘ってくれた仰木のことを深く感謝しており、自分の引退試合セレモニーで「天国にいる仰木さん、自分に最後の活躍の場を与えてくれてありがとう!」と感謝を述べた。 イチローが大リーグで3,000本安打を達成した際のインタビューで「仰木さん思い出した」「神戸で2000年の秋、お酒の力を使って大リーグ移籍を口説いた。仰木さんの決断がなければ、何も始まらなかった」と感謝の言葉を述べている。
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