プレイングマネジャーに就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:47 UTC 版)
「白石勝巳」の記事における「プレイングマネジャーに就任」の解説
監督の石本の仕事が早くから金策が主となったため、実質的に白石は広島球団創立時から監督のような立場でチームの指揮を執り、更に金策のサポートから選手補強などにも関わり、ゼネラルマネージャーのような働きをした。広島財界のトップだった東洋工業(1968年より広島球団の筆頭株主)社長の松田恒次とは球団創立期から懇意にしていたほか、広島市民球場建設、日南キャンプの開始、独立採算制の採用など補強費の調達にとどまらないチーム作りを行った。白石はそうした自分を「俺は本当に空気みたいな存在だな」(見えなくとも無くてはならない存在)という名言で表現している。当時の口癖は「勝率5割」であった。 1953年から選手と監督を兼任。トップバッターはアメリカから呼び寄せた銭村健四に譲るが、引き続き白石は正遊撃手も務め、エースの長谷川良平、4番打者の小鶴誠とともに、オールスターゲームにファン投票で選ばれ出場している。1954年7月7日の対国鉄戦でプロ野球史上初めて通算1500試合出場を達成。37歳になった1955年には若い米山祐昭に遊撃手のレギュラーを譲るが、一塁を守ってしばしばクリーンナップも打った。監督としては、どうしても巨人・阪神・中日の三強の壁を崩せなかったものの、3年連続で4位を確保した。1956年はわずか9試合の出場に留まり、監督としても勝率.358(5位)と低迷する。ここで白石は現役を引退して、1957年から監督に専念する。
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