ブラジル日本人移民事業への貢献
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「前田光世」の記事における「ブラジル日本人移民事業への貢献」の解説
1918年に第一次大戦が終結すると、欧州の復興需要を受けて1919年には日本は大正バブルとなったものの、復興が進んで生産が過剰となって、翌1920年には戦後恐慌が生じた。その後も震災恐慌、金融恐慌、世界恐慌、昭和恐慌など20年代の日本は相次いで恐慌に襲われ、慢性的な不況にあった。1922年に内務省は国内の人口問題、失業問題などへの対策として、渡航費等の補助によるブラジル移民奨励策を打ち出し、1924年からは渡航費を全額補助するようになった。一方アメリカでは1924年に排日移民法が成立し、サンパウロ州に移民が集中したブラジルでも排日論が強まっていた。 そんな中で1923年にパラー州州頭領アントニオ・エミリアーノ・デ・ソウザ・カストロは田付七太日本国駐ブラジル大使に対してアマゾンへの日本人移民入植の要請を行った。1926年に福原八郎を団長とする鐘紡の第一回アマゾン調査団がベレンに到着した際に前田が福原に語ったところによると、アマゾンこそ日本人移民の最適地だと考えた前田が州頭領と相談し、田付大使に日本人移民入植を持ちかけることになったとのことだった。 アマゾンは1914年頃まで天然ゴム景気に沸いていたものの、英国が密かにアマゾンから持ち出した種子を使って南アジアと東南アジアのプランテーションでゴムを生産するようになってゴム生産は下火になった。そのため、移民導入によるアマゾン開発に活路を見出す必要があった。 1924年には田付大使が野田良治書記官と森本海軍武官をアマゾン視察に派遣した。1925年には農学士の芹沢安平が単身で調査のために外務省を通してブラジルに派遣された。芹沢は田付大使の州頭領宛紹介状を携え、鐘紡の派遣留学生の仲野英夫と共にパラー州に入って、前田の世話によってアマゾン支流のカッピン川流域を調査した。新州頭領のディオニーシオ・アウシエル・ベンテスが芹沢を自ら案内し、カッピン川流域に1家族25ヘクタール、2万家族分計50万ヘクタールの土地のコンセッソン契約締結を申し出(1年以内の土地選定が条件)て、田付大使がこれを幣原喜重郎外務大臣に報告することでアマゾン移民の話が動き出した。 田付大使の報告を受けた政府は資金を鐘紡に負担させて土地選定のための調査を行うことにし、1926年に鐘紡取締役の福原八郎を団長とする第一回アマゾン調査団が派遣された。当時の日本は関東大震災の震災復興の最中で、政府には資金的な余裕がなかった。そこで関西の大企業である鐘紡に調査資金を負担させることになった。当時鐘紡の社長にあった武藤山治は若い頃アメリカに留学し、「米国移住論」という著書もある海外雄飛の論客だった。調査団の団員は福原のほかに、衛生・細菌学者で東京帝国大学教授の石原喜久太郎、内務省防疫官の飯村保三、内務省土木技師の谷口八郎と田村義正、土木技師助手の小村松栄、山林技師の石原清逸、農学士の芹沢安平、団長秘書の太田庄之助の総勢9名に通訳の大石小作が同行していた。一行がニューヨークでの1か月の文献調査を終えて、1926年5月30日の夜半にベレンに到着すると、ベレンの港にはリオ・デ・ジャネイロからやってきていた駐ブラジル大使の田付七太と前田、それにパラー州の高官たちが迎えに来ていた。 別の話になるが、福原調査団一行をパラー州首脳に紹介すべくベレンを訪問した田付大使は、調査団の到着が随分と遅れたため、福原の到着を待つ間にアマゾン川を遡行してアマゾナス州の州都マナウスを訪問した。マナウスには5日間滞在して猛烈な歓迎を受け、エフィジェニオ・サーレス州頭領から100万ヘクタールの土地の無償譲渡の申し出を受けた。通訳として同行した栗津金六はこの話に興味を持って、神戸高商の先輩で海外移住に興味を持っていた上塚司に資金協力者を募る手紙を送る。上塚の友人で訪伯準備をしていた山西源三郎が協力することになって、栗津と山西は1927年にマナウスにおいてアマゾナス州とコンセイソン契約を締結した。しかし、山西の資金状況が悪化して事業の継続ができなくなり、2人は全てを上塚に委ねることにした。これらの過程に前田がどのような関与をしたのか記載した文献は見当たらない。しかし、1930年に上塚が調査団を組織してアマゾン河口のベレンに到着をしたときに港で出迎えた人々の中には前田がいた。上塚は数日間のベレン滞在中に前田からパラー州の要人等様々な人物の紹介を受け、自宅でも歓待を受けて十年の知己のような間柄になった。この調査で上塚はパリンチンス下流の土地を選定し、マナウスで州政府と契約をすませると、アマゾニア産業研究所を設立してヴィラ・アマゾニアと名付けた入植地の開拓を開始する。ヴィラ・アマゾニアではジュート栽培が行われた。当初はことごとく失敗に終わり、入植地は全滅するかに思われた。しかし、1933年に尾山良太がアマゾンでの生育に適した個体を見つけ、ジュート栽培に目処がついたところで上塚はアマゾニア産業株式会社を設立した。前田はアマゾニア産業株式会社の取締役に就任した。1939年に第二次世界大戦が勃発しヨーロッパ経由で輸入されていたインド産ジュートが入ってこなくなるとジュート価格は高騰し、会社は大いに栄えた。 話を福原調査団に戻す。福原調査団の一行に農事部技師の江越伸胤、鐘紡の派遣留学生の仲野英夫、それに前田の3名を加えた総勢12名で実地調査が行われた。調査はまずカッピン川流域から行われ、3週間に渡る調査の結果は入植地として不適であるというものだった。その結果を踏まえて福原が州頭領と面会し、州内の官有地であれば他の場所でも良いとの言質を得て、調査が続けられた。2班に分かれて行った調査の結果、アカラ川流域の土地が肥沃であると判明し、協議の末にカッピン川から50キロ西にあるアカラを移住候補地として州頭領に上申することになった。州頭領は100万ヘクタールの土地の無償提供、アカラ以外の地方の土地の選択なども認め、その合意内容は1926年8月14日付公文書として福原に交付された。福原は公文書を帰朝した田付に代わって臨時代理大使を務めていた赤松祐之に直ちに提出し、外務大臣への転送を依頼した。 第一回アマゾン調査団による実地調査の傍で、福原にはもうひとつの使命があった。ニューヨークに寄港した際に同地在住の有志30名ほどが南米進出を研究するために結成した南米協会の村井保固から、アマゾンでの農場調達を依頼されていたのである。当時の米国日本人移民は排日運動を強く危惧していて、ブラジルへの移住を検討し、実際に移住する人もいた。南米協会は土地購入のために南米企業組合を結成して、購入資金を福原に託した。福原は調査の合間を縫って農場を探し、ベレンから70キロほど東にあるカスタニャールのロンバルジーア農場をイタリア人から購入した。福原自身も購入資金を個人的に出資した。福原は帰国に際して南米企業組合の農場管理担当者が到着するまでの支配人として仲野英夫を農場に置いた。仲野は1928年に前田の仲介でカスタニャールで小学校の教員をしていたマリアというブラジル人女性と結婚し、アマゾン地方でブラジル人女性と結婚した初めての邦人男性となった。また、この農場は後に南拓の農事試験場となった。 調査を終えて東京に帰った福原は直ちに外務省に「アカラ無償提供土地植民地経営計画案」を提出した。政府の対応は衆議院の解散などによって遅延したものの、1928年になって首相兼外相の田中義一が有力実業家を官邸に招待してアマゾン移住に関する懇談会を開催し、その場で渋沢栄一子爵によって12名の進行委員を推薦された。その後、2回の委員会を経て、資本金一千万円で南米拓殖株式会社を設置してアマゾン開拓事業を推進することに決まった。南米拓殖株式会社は1928年8月21日に設立され、社長となった福原は同月23日に横浜を出発、10月7日にベレンに到着した。こうして、自ら構想したアマゾン植民事業が進む中、前田は1927年5月にブラジルに帰化した。 南拓設立の動きを知ったエフィジェニオ・サーレス州頭領は福原に電報を打ってアマゾナス州の調査を依頼した。福原は調査団に通訳として同行していた大石小作に調査を委ね、大石はマウエス産のガラナに可能性を見出した。1928年9月にはマウエス開拓のための会社が設立され、前田はその顧問にも就任している。この計画は失敗に終わって会社は1935年には解散したものの、その後も前田はマウエス日本人会の顧問として同地域の邦人の世話を続けた。 ベレンに到着した福原は州政府とコンセッソン契約を締結し、1929年1月にブラジル法人である株式会社コンパニア・ニッポニカ・デ・プランタッソン・ド・ブラジルを設立して州政府と福原間で締結されたコンセッソン契約を新会社に移転した。前田もこの新会社の取締役に就任した。事業開始15年目からの納税を主張する州政府と交渉し、25年目からとさせたのも前田だった。新会社は実地調査を行なって最初の事業地をアカラ町から150キロ上流にあるトメアスーとすることに決め、1929年4月12日に先遣隊が測量と伐採を開始し、5月には中央病院を建設した。そして、7月24日には第一次移民43家族、単独渡航者8名を含む189名が大阪商船のモンテビデオ丸で神戸を出発した。 モンテビデオ丸は1929年9月7日にリオ・デ・ジャネイロに到着した。ちょうどブラジルの独立記念日だったので港の船は満艦飾だった。前田もベレンから駆けつけてリオ・デ・ジャネイロの港で第一次移民を迎えた。一行はマニラ丸でリオ・デ・ジャネイロからベレンへと向かって、9月16日にベレンに到着した。ベレンで5日間休息した後に、南拓の船でアマゾン川の支流を遡行し、9月22日の朝にトメアスー植民地に到着した。トメアスー植民地で一行は先遣隊とブラジル人の歓待を受けた。しかし、トメアスー植民地では開拓があまり進んでおらず、雨季までに2か月ほどしかないことから入植者たちはすぐに原生林を切り開く作業に没頭しなければならなかった。移民たちは切り開いた土地に南拓が主要作物として選定したカカオを植えた。しかし、カカオは収穫まで数年を要することから、短期の作物として米や野菜も植えた。 最初の騒動は翌年春に起きた。南拓が入植者たちの作った米を不当に買い叩くというのである。入植者たちは最初の収穫を得るまでの間、米を南拓から1俵20円で購入していた。日本の倍の価格だった。当然春になれば自分たちの作った米も同じように高く売れると考えていた。しかし、南拓の買取価格は1俵3円に過ぎないという。ベレンにはあまり米がなく、入植者たちの需要を満たすために遠隔地から米を買い付けなければならず、入植者たちへの販売価格は高くなった。一方で入植者たちの米が出来ると入植地以外に米の需要がないため、外部への販売価格は安くなり、買取価格も安くせざるを得ない。これは野菜についても同様で、当時のアマゾンには野菜を食べるという習慣がないため全く売れなかった。 この騒動で南拓は数名の中心人物を退去させ、入植者たちと南拓との間には亀裂が生じた。現金収入を得られない入植者たちは次第に体力を低下させてマラリアにかかるようになった。耕地を捨てて居なくなる脱耕者も出ていた。 1930年にアマゾン視察に訪れた南拓取締役の千葉三郎はサンパウロ州のサントス港に着くなりアマゾンに入っていた熱帯病医の松岡冬樹の訪問を受けて、退職の申し出を受けた。南拓の将来を悲観しての退職希望だった。千葉はアマゾンで主食となっているマンジョッカ芋の栽培をしていれば入植者の生活が安定したのにと悔やんだがあとの祭りだった。 1931年には入植者たちでアカラ野菜組合を結成し、野菜の生産から販売まで一貫して取り組むことへの挑戦を開始し、野菜の品種改良を進めると共に、ベレンで天秤棒を担いで野菜売りをすることまで行った。前田も野菜を広めるために、積極的にホームパーティを開催してブラジル人に野菜料理を振る舞った。 1934年にベレンに領事館が開設されるまで、前田はボリビアやペルーも含むアマゾン近郊の在留邦人にあれこれと便宜を図ってやっていた。ベレンの港の乗船者名簿を確認し、邦人を見つけると挨拶にやってきてあれこれと歓待し世話を焼くのが日課だった。そのため、いつしかベレンの私設領事と呼ばれるようになっていた。福原によれば在留邦人の結婚の世話からペルーから流れてきた邦人乞食の面倒まで見ていたとのことである。 1935年に南拓はアマゾン開拓のテコ入れのために新たに鐘紡幹部の井口茂寿郎と熱帯農業の権威高木三郎を現地に送り込んだものの、両者の決定は事業規模の縮小だった。社長の福原は私費1万円を置いて退任し、後を継いだ井口は植民地の自治を徹底して南拓は入植者の生活の面倒は見ないという方針を打ち出した。当時の1万円は現在[いつ?]価値にして数千万円の大金だった。 トメアスーの脱耕者は非常に多くなり、1929年から1937年までに入植者352家族2004人の入植者のうち、76家族1603人までが耕地を捨てて出て行った。それ以降も、さらに脱耕者は増えていった。前田は入植者がトメアスーに入るときには絶対にベレンに戻ってきてはダメだと言い聞かせていたものの、ベレンに戻ってきた脱耕者が相談に来ると仕事を紹介してやっていた。柔道を教えることは続けていたものの、生徒のほとんどは日本人の子だった。 戦後になって戦争の被害を受けた東南アジアからの胡椒の輸入が止まり、胡椒相場が高騰してトメアスーは大いに繁栄することになった。しかし、前田がその繁栄を目にすることはなかった。
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