ブラジル日本人移民事業への貢献とは? わかりやすく解説

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ブラジル日本人移民事業への貢献

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 08:42 UTC 版)

前田光世」の記事における「ブラジル日本人移民事業への貢献」の解説

1918年第一次大戦終結すると、欧州復興需要受けて1919年には日本大正バブルとなったものの、復興進んで生産過剰となって、翌1920年には戦後恐慌生じたその後震災恐慌金融恐慌世界恐慌昭和恐慌など20年代日本相次いで恐慌襲われ慢性的な不況にあった1922年内務省国内人口問題失業問題などへの対策として、渡航費等の補助によるブラジル移民奨励策打ち出し1924年からは渡航費全額補助するようになった一方アメリカでは1924年排日移民法成立しサンパウロ州移民集中したブラジルでも排日論が強まっていた。 そんな中1923年パラー州頭領アントニオ・エミリアーノ・デ・ソウザ・カストロは田付七太日本国ブラジル大使に対してアマゾンへ日本人移民入植要請行った1926年福原八郎団長とする鐘紡第一回アマゾン調査団ベレン到着した際に前田福原語ったところによると、アマゾンこそ日本人移民最適地だと考えた前田が州頭領相談し田付大使日本人移民入植持ちかけることになったとのことだった。 アマゾン1914年頃まで天然ゴム景気沸いていたものの、英国密かにアマゾンから持ち出した種子使って南アジアと東南アジアプランテーションゴム生産するようになってゴム生産下火になった。そのため、移民導入によるアマゾン開発活路見出す必要があった。 1924年には田付大使野田良治書記官森本海軍武官アマゾン視察派遣した1925年には農学士芹沢安平単身調査のために外務省通してブラジル派遣された。芹沢田付大使の州頭領紹介状携え鐘紡派遣留学生の仲野英夫と共にパラー州入って前田世話によってアマゾン支流のカッピン川流域調査した新州頭領のディオニーシオ・アウシエル・ベンテスが芹沢を自ら案内し、カッピン川流域に1家族25ヘクタール2万家族分計50ヘクタール土地のコンセッソン契約締結申し出1年以内土地選定条件)て、田付大使がこれを幣原喜重郎外務大臣報告することでアマゾン移民の話が動き出した田付大使報告受けた政府資金鐘紡負担させて土地選定のための調査を行うことにし、1926年鐘紡取締役福原八郎団長とする第一回アマゾン調査団派遣された。当時日本関東大震災震災復興最中で、政府には資金的余裕がなかった。そこで関西大企業である鐘紡調査資金負担させることになった当時鐘紡社長にあった武藤山治若い頃アメリカ留学し、「米国移住論」という著書もある海外雄飛論客だった。調査団団員福原のほかに、衛生細菌学者東京帝国大学教授石原喜久太郎内務省防疫官飯村保三、内務省土木技師谷口八郎田村義正、土木技師助手小村松栄山林技師石原清逸農学士芹沢安平団長秘書太田庄之助の総勢9名に通訳大石小作同行していた。一行ニューヨークで1か月文献調査終えて1926年5月30日夜半ベレン到着すると、ベレンの港にはリオ・デ・ジャネイロからやってきていた駐ブラジル大使田付七太前田、それにパラー州高官たちが迎え来ていた。 別の話になるが、福原調査団一行パラー州首脳紹介すべくベレン訪問した田付大使は、調査団到着が随分と遅れたため、福原到着を待つ間にアマゾン川遡行してアマゾナス州州都マナウス訪問したマナウスには5日滞在して猛烈な歓迎を受け、エフィジェニオ・サーレス州頭領から100万ヘクタール土地無償譲渡申し出受けた通訳として同行した津金六はこの話に興味持って神戸高商先輩海外移住興味持っていた上塚司資金協力者募る手紙を送る。上塚の友人で訪伯準備をしていた山西源三郎協力することになって津と山西1927年マナウスにおいてアマゾナス州とコンセイソン契約締結した。しかし、山西資金状況悪化して事業の継続ができなくなり2人全てを上塚に委ねることにした。これらの過程前田どのような関与をしたのか記載した文献見当たらない。しかし、1930年に上塚が調査団組織してアマゾン河口のベレン到着をしたときに港で出迎えた人々中には前田がいた。上塚は数日間ベレン滞在中に前田からパラー州要人等様々な人物の紹介を受け、自宅でも歓待受けて十年知己のような間柄になった。この調査で上塚はパリンチンス下流土地選定しマナウス州政府と契約をすませると、アマゾニア産業研究所設立してヴィラ・アマゾニアと名付けた入植地開拓開始する。ヴィラ・アマゾニアではジュート栽培が行われた。当初ことごとく失敗終わり入植地全滅するかに思われた。しかし、1933年尾山良太アマゾンでの生育適した個体を見つけ、ジュート栽培目処がついたところで上塚はアマゾニア産業株式会社設立した前田アマゾニア産業株式会社取締役就任した1939年第二次世界大戦勃発しヨーロッパ経由輸入されていたインドジュート入ってこなくなるとジュート価格高騰し会社大い栄えた。 話を福原調査団に戻す。福原調査団一行農事技師江越伸胤、鐘紡派遣留学生の仲野英夫、それに前田の3名を加えた総勢12名で実地調査が行われた。調査はまずカッピン川流域ら行われ、3週間に渡る調査結果入植地として不適であるというものだったその結果踏まえて福原が州頭領面会し州内官有地であれば他の場所でも良いとの言質得て調査続けられた。2班分かれて行った調査結果アカラ流域土地肥沃であると判明し協議の末にカッピン川から50キロ西にあるアカラ移住候補地として州頭領上申することになった。州頭領100万ヘクタール土地無償提供アカラ以外の地方土地選択なども認め、その合意内容1926年8月14日公文書として福原交付された。福原公文書帰朝した田付に代わって臨時代理大使務めていた赤松祐之に直ち提出し外務大臣への転送依頼した第一回アマゾン調査団による実地調査の傍で、福原にはもうひとつ使命があった。ニューヨーク寄港した際に同地在住有志30名ほどが南米進出研究するために結成した南米協会村井保固から、アマゾンでの農場調達依頼されていたのである当時米国日本人移民排日運動強く危惧していて、ブラジルへの移住検討し実際に移住する人もいた。南米協会土地購入のために南米企業組合結成して購入資金福原託した福原調査合間を縫って農場探しベレンから70キロほど東にあるカスタニャールのロンバルジーア農場イタリア人から購入した福原自身購入資金個人的に出資した福原帰国に際して南米企業組合農場管理担当者到着するまでの支配人として仲野英夫を農場置いた。仲野は1928年前田仲介でカスタニャールで小学校の教員をしていたマリアというブラジル人女性と結婚し、アマゾン地方ブラジル人女性と結婚した初めての邦人男性となったまた、この農場は後に南拓農事試験場となった調査終えて東京帰った福原直ち外務省に「アカラ無償提供土地植民地経営計画案」を提出した政府の対応衆議院の解散などによって遅延したものの、1928年になって首相外相田中義一が有力実業家官邸招待してアマゾン移住に関する懇談会開催しその場渋沢栄一子爵によって12名の進行委員推薦された。その後、2回の委員会経て資本金一千万円で南米拓殖株式会社設置してアマゾン開拓事業推進することに決まった南米拓殖株式会社1928年8月21日設立され社長となった福原同月23日横浜出発10月7日ベレン到着した。こうして、自ら構想したアマゾン植民事業が進む中、前田1927年5月ブラジル帰化した南拓設立動き知ったエフィジェニオ・サーレス州頭領福原電報打ってアマゾナス州調査依頼した福原調査団通訳として同行していた大石小作調査委ね大石はマウエス産のガラナ可能性見出した1928年9月にはマウエス開拓ための会社が設立され前田はその顧問にも就任している。この計画失敗終わって会社1935年には解散したものの、その後前田はマウエス日本人会顧問として同地域の邦人世話続けたベレン到着した福原州政府とコンセッソン契約締結し1929年1月ブラジル法人である株式会社コンパニア・ニッポニカ・デ・プランタッソン・ド・ブラジルを設立して州政府と福原間で締結されたコンセッソン契約新会社移転した前田もこの新会社取締役就任した事業開始15年目からの納税主張する州政府と交渉し25年目からとさせたのも前田だった。新会社実地調査行なって最初事業地をアカラ町から150キロ上流にあるトメアスーとすることに決め1929年4月12日先遣隊測量伐採開始し5月には中央病院建設した。そして、7月24日には第一次移民43家族単独渡航者8名を含む189名が大阪商船モンテビデオ丸で神戸出発したモンテビデオ丸は1929年9月7日リオ・デ・ジャネイロに到着した。ちょうどブラジルの独立記念日だったので港の船は満艦飾だった。前田ベレンから駆けつけリオ・デ・ジャネイロの港で第一次移民迎えた一行マニラ丸でリオ・デ・ジャネイロからベレンへと向かって9月16日ベレン到着したベレン5日休息した後に、南拓の船でアマゾン川支流遡行し、9月22日の朝にトメアスー植民地到着したトメアスー植民地一行先遣隊ブラジル人歓待受けた。しかし、トメアスー植民地では開拓があまり進んでおらず、雨季までに2か月ほどしかないことから入植者たちはすぐに原生林切り開く作業没頭しなければならなかった。移民たちは切り開いた土地南拓が主要作物として選定したカカオ植えた。しかし、カカオ収穫まで数年要することから、短期作物として米や野菜植えた最初騒動翌年春に起きた南拓入植者たちの作った米を不当に買い叩くというのである入植者たちは最初収穫を得るまでの間、米を南拓から1俵20円で購入していた。日本の倍の価格だった。当然春になれば自分たちの作った米も同じよう高く売れると考えていた。しかし、南拓買取価格は1俵3円に過ぎないという。ベレンにはあまり米がなく、入植者たちの需要満たすために遠隔地から米を買い付けなければならず、入植者たちへの販売価格高くなった。一方で入植者たちの米が出来ると入植地以外に米の需要がないため、外部への販売価格安くなり、買取価格安くせざるを得ない。これは野菜についても同様で、当時アマゾンには野菜食べるという習慣がないため全く売れなかった。 この騒動南拓数名中心人物退去させ、入植者たちと南拓との間には亀裂生じた現金収入得られない入植者たちは次第体力低下させてマラリアにかかるようになった耕地捨てて居なくなる脱耕者も出ていた。 1930年アマゾン視察訪れた南拓取締役千葉三郎サンパウロ州サントス港に着くなりアマゾン入っていた熱帯病医の松岡訪問受けて退職申し出受けた南拓将来悲観して退職希望だった。千葉アマゾン主食となっているマンジョッカ栽培をしていれば入植者の生活が安定したのにと悔やんだあとの祭りだった。 1931年には入植者たちでアカラ野菜組合結成し野菜生産から販売まで一貫して取り組むことへの挑戦開始し野菜品種改良進めと共にベレン天秤棒担いで野菜売りをすることまで行った前田野菜広めるために、積極的にホームパーティ開催してブラジル人野菜料理振る舞った1934年ベレン領事館開設されるまで、前田ボリビアペルーも含むアマゾン近郊在留邦人あれこれ便宜図ってやっていた。ベレンの港の乗船者名簿確認し邦人を見つけると挨拶にやってきてあれこれ歓待し世話を焼くのが日課だった。そのため、いつしかベレン私設領事呼ばれるようになっていた。福原によれば在留邦人結婚世話からペルーから流れてきた邦人乞食の面倒まで見ていたとのことである。 1935年南拓アマゾン開拓テコ入れのために新たに鐘紡幹部井口茂寿郎と熱帯農業権威高木三郎現地送り込んだものの、両者決定事業規模縮小だった。社長福原私費1万円置いて退任し、後を継いだ井口植民地自治徹底して南拓入植者の生活の面倒は見ないという方針打ち出した当時1万円は現在[いつ?]価値にして数千万円大金だった。 トメアスーの脱耕者は非常に多くなり、1929年から1937年までに入植者352家族2004人の入植者のうち、76家族1603人までが耕地捨てて出て行ったそれ以降も、さらに脱耕者は増えていった。前田入植者トメアスーに入るときには絶対にベレン戻ってきてはダメだと言い聞かせていたものの、ベレン戻ってきた脱耕者が相談に来ると仕事紹介してやっていた。柔道教えることは続けていたものの、生徒のほとんどは日本人の子だった。 戦後になって戦争被害受けた東南アジアからの胡椒輸入止まり胡椒相場高騰してトメアスー大い繁栄することになった。しかし、前田がその繁栄目にすることはなかった。

※この「ブラジル日本人移民事業への貢献」の解説は、「前田光世」の解説の一部です。
「ブラジル日本人移民事業への貢献」を含む「前田光世」の記事については、「前田光世」の概要を参照ください。

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