ブラジル政府の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
1902年11月、ブラジルに新政権が誕生し、リオ・ブランコ男爵の称号を持つホセ・マリア・ダ・シルバ・パラノス・ジュニオール(英語版、ポルトガル語版)(以後、「リオ・ブランコ男爵」と呼称)が、外務大臣に就任した。リオ・ブランコ男爵は、アクレ紛争の恒久的解決を目指した。リオ・ブランコ男爵は、12月26日、ボリビア政府に対して「アクレ地方のブラジルへの併合と、代償として十分な対価を支払うこと」を提案した。 一方、ボリビアのマヌエル・パンド大統領は、自ら軍隊を率いてプエルト・アロンソの救出に向かうことを決意した。1903年1月26日、数百の兵を引き連れてアクレ地方に向けて出発した。 リオ・ブランコ男爵は、1903年2月6日、ボリビア政府に対して、再度アクレへの遠征を中止と、受け入れられない場合には交戦も辞さないとする最後通牒を行った。これは外交上の駆け引きではなく、実際に、ブラジルはボリビアとの国境線に数千の兵を移動させていた。 マヌエル・パンド大統領は、プエルト・アロンソのボリビア軍が1月24日に降伏したこと、およびブラジルが最後通牒を送ってきたことを知り、ラ・パスへ引き返した。陸軍大臣の職にあったイスマエル・モンテスを司令官として再び遠征軍を送る計画もあったが、ブラジルとの戦争に発展することを恐れ、最終的に遠征を中止した。1903年3月21日、マヌエル・パンド大統領は、正式にブラジルの提案を受け入れた。
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