ブラジルとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/20 21:20 UTC 版)
「ウィリアム・ブラウン (提督)」の記事における「ブラジルとの戦争」の解説
詳細は「アルゼンチン・ブラジル戦争」を参照 ブラウンはそのまま平穏には過ごせなかった。ウルグアイは3世紀にわたってスペインとポルトガルとの争いの種だったが、今ではアルゼンチンとブラジルとの間で同じ役割を果たしていた。1825年12月14日、アルゼンチンとブラジルの間に戦争が勃発した。アルゼンチン当局には経験豊かな提督どころか艦隊もなく、国境に沿って展開させた陸上戦力にすべての余力を注いでいた。海岸線の防備は見て見ぬふりをされ、ブラウンによるこれまでに渡る作戦可能な艦隊の要求は無視され、ブラウンは同盟支持の「青シャツ派」から連邦支持の「赤シャツ派」に鞍替えした敵対者のほとんどから「外国人」と見なされていた。だがついに好機が訪れた。 ブエノスアイレスの港を護るため、ブラウンは再び提督として軍務に復帰するよう懇願された。彼は要請を受け入れ、彼の能う限り、艦隊を作り上げ、整備することに従事した。 ブラジルはアルゼンチンを封鎖することから作戦を開始した。この非常事態にアルゼンチンはブラウンの指導の下、彼が指揮する新しい艦隊を何とか間に合わせた。アルゼンチンの封鎖に対する報復行動として、彼は精力的にブラジル沿岸を攻撃し、ブラジルの海運に打撃を与え、奮闘したフンカルの戦い(Battle of Juncal)においては7隻の船と8隻の砲艦をもって17隻からなるブラジル艦隊を全滅させ、敵の司令官を捕虜とした。1827年6月11日、ブエノスアイレスをすぐ目の前にして、アルゼンチン軍とブラジル軍の間にロス・ポソスの決戦(Battle of Los Pozos)が行われた。アルゼンチン軍はわずか11隻の船しかなかったのに対し、ブラジル軍には31隻もの船があった。戦闘の前、ウィリアム・ブラウンは彼のよく知られている2つの言葉を残した。「同志諸君!勝利と訓練を信じよ。そして祖国へ万歳三唱!」そしてその数分後、「砲撃開始!国民がみているぞ!」激しい遭遇線の後、ブラジル軍は総崩れとなって敗走し、ブラウンがアルゼンチン側の委員となって1827年10月4日にブエノス・アイレスの自由を保障する条約が結ばれると、ある種の平和が訪れた。
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