ブラジルでの布教活動とは? わかりやすく解説

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ブラジルでの布教活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 10:00 UTC 版)

ジョゼ・デ・アンシエタ」の記事における「ブラジルでの布教活動」の解説

1553年アンシエタイエズス会新大陸へ向けて送る第3次グループ一員として選ばれ第二総督として国王から推薦されたドゥアルテ・ダ・コスタに随行しブラジル渡った冒険的な旅と難破の後、アンシエタ彼のいた小さな一団は、1534年ブラジル初め作られたサン・ヴィセンテという到着した。そこで彼はその地域に住むタプイア・インディオ(原住民)と初め接触した。 同じ年、ポルトガル人イエズス会宣教師マヌエル・ノブレガは、インディオがピラチニンガと名づけたティエテ川沿い山脈セーハ・ド・マール向けて13人の宣教師送り、そこに布教のための拠点置いた1554年1月25日にはその場所で初めミサがとり行われた。そこでアンシエタは、イエズス会同僚キリスト教への改宗洗礼教理問答教育活動行ったアンシエタインディオラテン語教え、また彼はインディオ言葉である古トゥピ語学び始めとともに辞書と文法をまとめ始めた。こういった作業実際全世界イエズス会宣教団が初めて「野蛮人」と出会った後の、目的習慣となっていた。これは、サンパウロ・ピラチニンガ・イエズス会学校呼ばれ、すぐに拡張をはじめ、居住民のとなって栄えようになった一方でポルトガル人植民者インディオ組織的な殺人略奪行ったり、奴隷化企てたりしたことにより、現在のサンパウロ州リオデジャネイロ州エスピリトサント州海岸沿いのインディオ部族たちは反抗し、タモヨ連合(タモイオ連合)という同盟形成し、すぐにフランス人移住者たちから援助受けたフランス人移住者は、ユグノー提督代理のニコラ・デュラン・ド・ヴィルゲニョン (Nicolas Durand de Villegaignon) らに指揮され1555年に、リオデジャネイロ付近グアナバラ湾移住していた。この連合1562年から1564年の間、数回わたってサンパウロ攻撃したが、町はこれらを食い止めたポルトガル移住者たちと正反対方法インディオ取り扱い、この点で総督ドゥアルテ・ダ・コスタらと摩擦生んでいたアンシエタとノブレガは、イペロイグ現在のウバツーバ、サンパウロ州の北の沿岸)でタモヨ連合和平交渉始めることを決断したアンシエタトゥピ語技能は、この交渉には必須であったいくつかの事件や、もう少し殺されるような出来事の後、アンシエタとノブレガは最終的にインディオ信頼勝ち得て、タモヨ連合トゥピ民族ポルトガル人の間で和平確立された。 しかしながらブラジルの新総督メン・デ・サー(Mem de Sa, 1500年 - 1572年)の甥に当たるエスタシオ・サー (Estacio de Sa) がフランス人入植者たちを追い払う命令下したことから、平和は終わった1565年有力な支援アンシエタ、ノブレガの賛成のもと、彼は軍隊とともにサン・ヴィセンテを出発しリオデジャネイロポン・ヂ・アスーカル(「砂糖パンの岩」の意)の麓に城壁建設したアンシエタ彼の隊の一員となり、ポルトガル人とその同盟インディオ対フランス人とその同盟インディオいくつも戦い軍医通訳として参加した。彼はまたサルヴァドール・ダ・バイーアにある総督本部報告する責任負っており、1567年フランス人との勝利を得た最後の戦いにも参加したこのような背景とは裏腹にアンシエタとノブレガについての悪いうわさが流れ総督のメン・デ・サーが1559年ユグノー難民仕立て屋ジャケ・ル・バローを逮捕したことについて彼らを非難した異端者抹殺したいという欲望から、死刑執行人プロテスタント死刑判決実施拒否した後、アンシエタがル・バローを殺したというのだ。しかしながら、この話はかなり後に証拠となる文書によって誤りであることが証明されたが、噂自体はなかなか消滅しなかった。 平和になった後、ノブレガの指揮によってイエズス会学校リオ建設され1570年ノブレガの死後アンシエタ引き継いだ彼の病弱な体、徒歩や船の過酷な長旅にもかかわらずアンシエタ次の10年リオデジャネイロバイーアエスピリト・サントサンパウロという広い範囲を旅をして、イエズス会宣教強化のために驚くほど広範囲仕事行った1577年、第4代イエズス会総会長エバハード・マーキュリアンは、アンシエタブラジルにいる会員序列のなかの地最高位につけることを約束した1591年、健康の悪化のため、彼は業務軽減要請した。彼は第2の祖国エスピリトサント州ヘリチバで1597年6月9日亡くなり、彼をインディオの魂や尊厳を守る上で仲介者として高く評価していた3,000人以上のインディオ見送られた。 彼は人生その後通じて、ほとんど超越した存在のように考えられていた。彼が説教をしたところ、攻撃的なジャガーおとなしくなったというような多く伝説生まれており、今日に至るまで、アンシエタに祈ると動物の攻撃から守られるという民間信仰続いている。 ジョゼ・デ・アンシエタは、「ブラジル文学」の創設者として、ノブレガと共にブラジル最初宣教師として賞賛されている。彼は二つの町、エスピリトサント州アンシエタアンシエタ終焉の地で、以前はヘリチバと呼ばれていた。)とサンタカタリーナ州アンシエタ、そして他の多くの場所や道、団体病院学校の名前に名を残している。 1980年教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福され、アンシエタは「祝福されジョゼ・デ・アンシエタ」の称号受けた。 なおも彼を聖人にまで昇格させる運動起こり結果2014年4月3日教皇フランシスコによって列聖され、崇敬集めている。 それは・ペトロ・ド・ベタンクールド後カナリア諸島第二ネイティブ聖人です。

※この「ブラジルでの布教活動」の解説は、「ジョゼ・デ・アンシエタ」の解説の一部です。
「ブラジルでの布教活動」を含む「ジョゼ・デ・アンシエタ」の記事については、「ジョゼ・デ・アンシエタ」の概要を参照ください。

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