ブラジルでの高い評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
「日系ブラジル人」の記事における「ブラジルでの高い評価」の解説
日系ブラジル人2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、上記のような政界や官界、経済界の中枢のみならず、医師、弁護士、技師、地質学者、教員、芸術、文化、スポーツ、農業等を含む広範な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献したと非常に高く評されている。、 1954年には、日系ブラジル人2世の田村幸重が初の日系ブラジル人の連邦議員に就任した他、1969年には初の日系ブラジル人の国務大臣として、2世のファビオ・ヤスダ(安田良治)(ポルトガル語版)が商工大臣に就任した。また、1974年には同じく2世のシゲアキ・ウエキが鉱山動力大臣に就任した。この3人の国政中枢への就任は、「日系ブラジル人の社会的成功」と「ブラジル社会への同化」の象徴として受け止められた。 なお、ラテンアメリカ諸国全体で見ても屈指の大学とされるブラジルの最高学府サンパウロ大学の学生のうち、かつては約15パーセントが日系ブラジル人の子弟であり、教員の約8パーセントが日系ブラジル人であった。1パーセントに満たない日系人の人口比からみて、それがいかに高いものかがわかる。 ブラジル発見500周年記念行事の一環として、サンパウロ大学は2000年に初めて各学科の成績1位の卒業生を表彰したが、受賞者87人中、17人が日系人だった。ただし、サンパウロ州としてみれば総人口に占める日系人の比率は2パーセント強であり、サンパウロ大学の本キャンパスが所在するサンパウロ市にいたっては総人口の5パーセント強は日系人であるという点、ブラジルの中でも日系人が偏在しているサンパウロ州周辺の南東部・南部地域が他の地域に比べ高等教育を受けやすい地域でもある。 また、上記のように第二次世界大戦後の高度経済成長期前後に多くの日本企業がブラジルに進出した際には、これらの日系ブラジル人がその先導役、仲介役を務めただけでなく、日本人移民や日系ブラジル人がブラジル社会に作り上げていた「日本人は勤勉」、「日本人は信用できる」という好意的な評価が、日本企業のブラジル進出と市場への浸透を容易にしたと高く評価されている。なお、日系ブラジル人と日本人は不渡り手形をめったに出さないので、非日系ブラジル人は「Japones Garantido」(日本人は確実に信頼できる)とよび、小切手の受け取りを拒否しなかった。 1950年代以降、ブラジル生まれでブラジル人としてのアイデンティティを持った「2世」や「3世」の多くが成人し、ブラジル社会の中枢へと入って行ったことで、ブラジルにおける日系人社会(「コロニア」と呼ばれる)の中心が、日本人である「日本人移民1世」から、ブラジル人である「2世」や「3世」へと変わった。同時に日本語会話は徐々に衰退し、現在ではほとんど話されなくなった。
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