ブラジルでのコーヒー栽培
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「コーヒーの歴史」の記事における「ブラジルでのコーヒー栽培」の解説
「ブラジルにおけるコーヒー生産」も参照 ドゥ・クリューが持ち込んだコーヒーノキの子孫はマルティニーク島からラテンアメリカ各地に広がり、スリナム、ハイチ、キューバ、コスタリカ、ベネズエラでもコーヒーの栽培が始められた。中でもハイチは18世紀後半までコーヒーの一大産地となっていたが、18世紀後半から19世紀初頭にかけてのハイチ革命を経て、ハイチでのコーヒーの産出量は激減した。1732年にマルティニーク島からイギリス領のジャマイカに移植され、「ブルーマウンテン」の起源となった。 低価格のアラビカ種のコーヒーが多量に生産されるブラジルは、国際社会におけるコーヒーの流通や価格設定に強い影響力を有している。ブラジルのコーヒー伝播にまつわる有名な伝承として、1727年にフランス領ギアナとオランダ領ギアナの間に起きた紛争の仲裁のために派遣されたブラジルの使節パレータ (Francisco de Melo Palheta) が、恋仲に落ちたフランス代理総督夫人からコーヒーの種を託されたという逸話が知られている。1773年/74年にフランシスコ会の修道士によって、リオデジャネイロの聖アントニオス修道院の庭に種子が植えられた記録が残る。 フランス皇帝ナポレオンの大陸封鎖令を経験したヨーロッパで砂糖の自給が可能になった後、ブラジルは砂糖に代わる輸出品としてコーヒーに着目した。ブラジル皇帝ペドロ1世は国内の農業を振興し、1818年にサントスから出荷されたブラジル産のコーヒーがヨーロッパに向けて輸出された。ペドロ2世の即位後にリオデジャネイロ州でコーヒー栽培が本格的に行われるようになり、コーヒー栽培はミナスジェライス州、サンパウロ州にも拡大した。1870年代にブラジルのコーヒー栽培の中心地はリオデジャネイロ州から、ミナスジェライス州とサンパウロ州に移る。大規模なプランテーションと奴隷制度に基盤を置いた栽培によって、ブラジルは19世紀のコーヒー市場を席巻する。1888年にブラジルで奴隷制度が廃止された後、賃金の安価なヨーロッパ系移民がコーヒー産業に従事した。旧来の大土地所有者から転身したコーヒー農園主をはじめとする支配者層の主導でブラジルのコーヒー産業は拡大していくが、彼らが農園で実施した焼畑農業は大規模な環境破壊を引き起こした。 20世紀初頭からブラジルではコーヒーが過剰に生産される状態が慢性的に続き、州知事たちは価格の暴落の阻止に苦慮する。生産量の増加に伴うコーヒーの低価格化に際して、1902年にブラジルをはじめとするラテンアメリカのコーヒー生産国はニューヨークに代表者を派遣し、初めて「コーヒーの生産と消費を考える国際会議(国際コーヒー会議)」を開催した。第一次世界大戦直前のブラジルでは、国内生産の約90%をコーヒーが占め、その多くがアメリカに輸出された。第一次世界大戦中、アメリカとフランスは余ったコーヒーの買い取りを条件にブラジルに連合国側への参戦を要請し、余ったコーヒーが売却された。1920年にアメリカで禁酒法が施行された際にアメリカはラテンアメリカ各国からコーヒーを大量に輸入し、ブラジルに「コーヒー・バブル」が到来する。しかし、1929年にコーヒー消費国を襲った世界恐慌によって、ブラジルのコーヒー・バブルは崩壊する。コーヒーの価格は50%以上下落し、コーヒー栽培に従事する労働者の賃金も50-60%削減されて大量の失業者が現れる。余ったコーヒーは海上に投棄・焼却され、約47,000,000袋のコーヒーが破棄された。1930年にブラジル政府はネスレに過剰に生産されたコーヒーの引き取りを依頼し、1938年にスイス、翌1939年にアメリカ合衆国でネスカフェの販売が開始される。
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