備中守護家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:50 UTC 版)
細川頼之の末弟・細川満之を祖とし、頼重、氏久、勝久と代々備中国の守護職を継承した。他に伊予国新居郡などの領有の記録もある。 備中国はもともと京兆家や阿波守護家など、他の有力守護家の影響が強く及んでおり、庄氏を初めとする国人統制も困難を極め、頼重などは永享3年(1431年)に謎の狂死を遂げている。勝久の代に、庄元資(伊豆守)との争乱が勃発し(備中大合戦)、これは備中守護家が勝利したが、国内の混乱はますます加速する一方で、以後次第に勢力を弱めていく。阿波守護家から迎えた勝久の養子である之勝(細川義春)は、実兄・政之の死に伴い後に阿波守護家に戻ったため、勝久の系統がその後守護に就任することはなく、事実上守護家は断絶した。 以降は阿波守護家の細川之持(義春の子)が一時的に備中守護を継いだ後、永正の錯乱の際に実の弟である細川澄元を支持した之持に対抗するために細川高国が細川国豊(細川春倶の子)を新しい守護として派遣した。国豊とその子が早世すると、高国の実父である野州家の細川政春が備中守護となるが、永正15年(1518年)以降、備中守護の任命は長く為されなかった。備中は戦国に突入したのである。
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