細川氏と備中の関わりとは? わかりやすく解説

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細川氏と備中の関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 15:34 UTC 版)

鴨山城」の記事における「細川氏と備中の関わり」の解説

細川氏足利家一門として、室町幕府成立深く関わり、またその発展寄与したことはよく周知されている。細川満国祖父頼春は足利尊氏忠実であり、尊氏九州落ちる際には四国分遣され平定行っている。叔父である細川頼之幕府管領に就き幼少足利義満補佐するが、斯波家中心とするクーデター康暦の政変」で失脚し、父である頼元とともに四国に下る。後に義満により赦免を受け頼元管領となった頼元のあとは満元が細川宗家にあたる京兆家後継として管領となった。満国は分家の形となり浅口郡宇摩郡などの守護任じられている。満国の子持春、孫の教春は下野守名乗り、この一族野州家と呼ぶこともある。なお細川氏近畿一円四国勢力範囲広げており、さらに中国地方への浸透の足掛りとして瀬戸内海沿いの備前国児島備中国浅口の地などを選び築城したもの思われる備中守護は、細川頼之末弟である満之の一族備中守護家)が任じられていた。ただし備中守護家支配基盤脆弱であったとされる国衙領守護代への京兆家支配浸透国人勢力割拠)。また浅口郡中心とした瀬戸内海運差配などは、引き続き野州家京兆家分家性格有している)が担っていたようである。応仁の乱では細川氏一族をあげて東軍一翼担ったが、乱後には対抗勢力である有力守護相対的に減少したこともあり、京兆家(政元)による一族支配強化され始め軋轢生んだようである。 備中でも守護細川勝久時代延徳3年1491年)には備中守護代庄氏一族でもあり、京兆家内衆であった伊豆守元資備中で兵を起こし守護郎党被官五百余人討ち取り守護方の倉を略奪した備中大合戦呼ばれる戦乱始まったのである在京していた勝久は、翌年明応元年1492年)に軍勢引き連れて備中入国し、庄元資らと合戦におよびこれを打ち破ったその後勝久と元資の間には和議なされたようであり、乱は一旦治まった明応2年1493年)頃に勝久は死去したようである。その勝久は後継阿波守護家から細川成之次子である之勝を迎えていたが、之勝は長享2年1488年)の実兄・政之の死去により阿波守護家家督継ぎ延徳3年には義春と称している。備中守護家生じた後継問題に、やがて庄元資らも介入し戦乱再開され守護権威はさらに揺らいだのである。庄元資文亀2年1502年7月頃に死去したらしく、戦乱下火となっている。永正8年1511年)頃、義春の子之持が、備中守護兼ねる形で混乱収束向かったようだが、翌9年1512年)に之持は死去している。 さて永正4年1507年)末に、足利義稙戴き大内義興中国・九州勢を率いて上洛開始すると、永正5年1508年春には、野州家から京兆家猶子となっていた細川高国は義興に呼応し共に入京した。これにより将軍足利義澄追放され義稙将軍復職高国管領就任し、そして義興は管領代として幕政執行した。この過程の中で野州家浅口郡守護)の細川政春高国実父)が備中守護となったが、 戦国時代においては既に守護としての実権はなく、庄氏三村氏などの有力国人それぞれ自立し覇を争う状況であった。政春は備中下向することもなく積極的に領国経営行った痕跡はない。永正15年1518年)には、その政春も死去している。中央の混乱京兆家家督争い)は続き幕府権威失墜しており、以後備中守護任命長らくなされなかった。この時点で、備中実効支配者は庄氏一門であった天文5年1536年)、出雲尼子晴久備中侵入し国人衆支配下においた。野州家家督継いでいた細川輝政(通政)は尼子氏らの圧迫抗することができず伊予国退いた。同23年1554年)晴久は名目上ではあったが(守護補任尼子氏戦略上重要な手段であった)、備中守護任じられている。ただし天文10年1541年)の吉田郡山城の戦いを境に尼子氏勢力弱まりその後毛利氏影響備中伸びることになる。 伊予川之江城に在った細川通董通政養子となり、やがて毛利氏援助受けて失地回復乗り出した永禄2年1559年)、まず現在の笠岡市大島青佐山城築き次に浅口市南部竜王山城、そして天正3年1575年)に鴨山城入った。通董は本城改修しさらなる勢力回復努めるが、次第毛利氏傘下一武将として遇されるうになるこの間元亀元年1570年)に、宇摩郡などは同じく毛利氏同盟者となった河野氏譲渡併呑)されている。毛利氏織田氏対立深めるようになり、通董も高松城の水攻めに参陣している。しかし本能寺の変の後一転し後継となった羽柴秀吉同盟した。通董は豊臣政権下では九州征伐毛利氏先鋒勤めるにいたるも、帰国途中赤間関死没す。天正15年1587年)のことである。通の子元通は毛利輝元配下として朝鮮出兵出陣し軍功収めた慶長5年1600年)の関ヶ原の戦い後に、西軍毛利氏周防国長門国2ヶ国に削封されると元通も鴨山城去り、この地の細川氏支配終焉迎えた。元通の子孫は長州明治維新迎えている。

※この「細川氏と備中の関わり」の解説は、「鴨山城」の解説の一部です。
「細川氏と備中の関わり」を含む「鴨山城」の記事については、「鴨山城」の概要を参照ください。

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