細川氏綱・遊佐長教の攻勢とは? わかりやすく解説

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細川氏綱・遊佐長教の攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 04:57 UTC 版)

舎利寺の戦い」の記事における「細川氏綱・遊佐長教の攻勢」の解説

ここに細川晴元畿内最大勢力となり天文6年1536年)には管領就任したが、高国方の残存勢力はなおも抵抗し畿内混沌とした状態が続いた天文11年1542年)、和泉国挙兵し高国養子氏綱は同国堺を包囲した。ただ陥れることはできず、翌年1543年8月摂津国住吉郡転進した晴元方の三好長慶敗北し10月中旬和泉山間部退却した細川氏綱その後もしばしば他の高国と共に小規模な戦闘繰り返したが、天文15年1546年)には河内守護代遊佐長教と結び、高屋城入城する準備整えた。これを聞きつけた細川晴元から討伐命じられ三好長慶は、8月に堺に入り氏綱・遊佐連合軍攻撃する準備かかったが、却って包囲されてしまう。会合衆らの仲介によって包囲解かれたものの、連合軍北上して西成郡大塚城包囲した。 さらに遊佐長教三宅城大阪府茨木市)の三宅国村池田城大阪府池田市)の池田信正(久宗)へ書状送って摂津の国衆を氏綱に帰参せしめ、晴元の裏切りを明確にした。長慶大塚城救出断念して阿波守護細川持隆援軍要請し四国にある三好実休十河一存淡路水軍率い安宅冬康兄弟勢力結集することを優先したため、大塚城9月4日落城三宅池田寝返りにより、晴元同月14日京都離れ丹波国神尾山城京都府亀岡市)へ退いた。氏綱・遊佐連合軍京都方面向かい芥川山城大阪府高槻市)を攻撃、これに対して三好政長後方から攻撃仕掛けたが、城主芥川孫十郎18日和睦開城してしまう。

※この「細川氏綱・遊佐長教の攻勢」の解説は、「舎利寺の戦い」の解説の一部です。
「細川氏綱・遊佐長教の攻勢」を含む「舎利寺の戦い」の記事については、「舎利寺の戦い」の概要を参照ください。

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