細川氏綱・遊佐長教の攻勢
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「舎利寺の戦い」の記事における「細川氏綱・遊佐長教の攻勢」の解説
ここに細川晴元は畿内最大の勢力となり天文6年(1536年)には管領に就任したが、高国方の残存勢力はなおも抵抗し、畿内は混沌とした状態が続いた。天文11年(1542年)、和泉国で挙兵した高国の養子氏綱は同国堺を包囲した。ただ陥れることはできず、翌年(1543年)8月に摂津国住吉郡へ転進したが晴元方の三好長慶に敗北し、10月中旬に和泉の山間部に退却した。 細川氏綱はその後もしばしば他の高国派と共に小規模な戦闘を繰り返したが、天文15年(1546年)には河内守護代遊佐長教と結び、高屋城に入城する準備を整えた。これを聞きつけた細川晴元から討伐を命じられた三好長慶は、8月に堺に入り氏綱・遊佐連合軍を攻撃する準備にかかったが、却って包囲されてしまう。会合衆らの仲介によって包囲は解かれたものの、連合軍は北上して西成郡の大塚城を包囲した。 さらに遊佐長教は三宅城(大阪府茨木市)の三宅国村や池田城(大阪府池田市)の池田信正(久宗)へ書状を送って摂津の国衆を氏綱に帰参せしめ、晴元への裏切りを明確にした。長慶は大塚城の救出を断念して阿波守護細川持隆に援軍を要請し、四国にある三好実休・十河一存や淡路水軍を率いる安宅冬康ら兄弟の勢力を結集することを優先したため、大塚城は9月4日に落城。三宅・池田の寝返りにより、晴元も同月14日に京都を離れ丹波国神尾山城(京都府亀岡市)へ退いた。氏綱・遊佐連合軍は京都方面に向かい芥川山城(大阪府高槻市)を攻撃、これに対して三好政長が後方から攻撃を仕掛けたが、城主芥川孫十郎は18日に和睦開城してしまう。
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