細川氏との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:22 UTC 版)
父に引き続き日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領細川勝元と争い、細川氏と敵対する伊予の河野通春を支援する。これに対し細川氏は大内氏追討の幕命を発し、安芸分郡守護武田信賢や安芸国人小早川煕平・毛利豊元らが安芸で大内軍と衝突した。 一方、京から追放されて父が引き取っていた斯波義敏は、政弘と勝元との敵対で政弘から離脱し、寛正6年12月30日に上洛。将軍・足利義政に赦免されると、翌文正元年(1466年)7月23日に斯波義廉に代わって斯波氏当主に復帰、8月25日に越前・尾張・遠江の守護に任じられた。義廉は寛正6年の段階で畠山義就と山名宗全(政弘の義理の祖父)と繋がっていて、政弘も宗全と連携、これらの確執が応仁の乱の際に反細川氏側につく要因となる。
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