細川晴元との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)
父・義晴は没落気味であった細川晴元と決別し、細川氏綱と手を結んだが、晴元も黙ってはいなかった。晴元は報復として、阿波で庇護していた義晴の兄弟・足利義維を擁立した。晴元は義晴を決別するまで支援しつつも、一方で義維を庇護するという、「ねじれた関係」を持っていた。 だが、この事態は六角定頼を悩ませた。定頼にとって、義晴は晴元とともにこれまで支えてきた同志であり、義藤もまた自身が烏帽子親を務めた人物だった。一方の晴元もまた、自身の息女が嫁いだ娘婿であり、近しい存在であった。もし、晴元に味方すれば、義藤の将軍としての権威を否定し、義維を将軍として認めることになるからであった。 そのため、定頼は義晴・義藤父子と晴元を和解させようとした。その一環として、大坂の石山本願寺に嫁ぐことが内定していた晴元の息女を、義藤の御台所にしようと画策した。だがこの話は強引すぎたため、うまくいかなかった。その間にも、義晴・義藤と晴元の関係は悪化し、晴元は各地で氏綱派を打ち負かし、京へと迫った。 3月29日、義藤と義晴は身の危険を感じ、北白川に建設していた将軍山城へと逃げ、ここに籠城した。そして、晴元との対決姿勢を鮮明にしたため、定頼は両者の板挟みになって窮した。 7月12日、義藤と義晴の籠城する将軍山城は、定頼と晴元の大軍に包囲された。定頼は父子に対して、晴元との和解を強いた。定頼の背反により、父子は成す術を失い、全面的にその要求を受け入れざるを得なくなった。 7月19日、義藤と義晴は将軍山城に火を放ち、城を出て近江坂本に向かった。だが、29日に定頼の仲介のもと、晴元と坂本で和睦した。このとき、義藤は晴元と面会したが、義晴は晴元と面会しなかった。他方、この和解により、晴元の支援していた足利義維は立場がなくなり、同年12月に堺から四国へと戻った。 天文17年4月、定頼は大和に入り、氏綱派の遊佐長教と面会し、晴元派と氏綱派の和解を取り付けた。これにより、細川一門の騒擾は収まり、畿内の政情も安定した。そのため、6月17日に義藤と義晴は坂本から京へと戻り、今出川御所に入った。
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