細川高国・晴国時代とは? わかりやすく解説

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細川高国・晴国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:55 UTC 版)

内藤国貞」の記事における「細川高国・晴国時代」の解説

丹波内藤氏代々丹波守護細川氏仕え守護代務めていた。国貞同国守護である京兆家当主細川高国より偏諱を受け、国貞名乗った永正2年1505年)の時点では幼名の亀満丸称しているが、永正6年1509年)には通称の彦五郎名乗り守護代として活動している。父・貞正はこの後丹波活動しており、大永5年1525年)に貞正が死去するまでの間、在国する貞正と京都高国補佐する国貞とで役割分担していたもの考えられる享禄4年1531年)、細川晴元との戦い高国死去すると、国貞出家して宗周名乗った。しかしその直後高国の弟・晴国の擁立成功し天文元年1532年12月には還俗している。 国貞晴元と争う晴国を補佐したが、天文2年1533年6月、晴国と結ぶ本願寺晴元方と和睦をすると、晴国から離れて晴元方へと転じた。この時、丹波地盤とする上原氏や波々伯部氏も晴国方から離反しており、天文元年1532年7月に晴国方帰参した丹波新興勢力である波多野秀忠重用への反発背景にあった推測される国貞離反前後から、秀忠内藤氏使用してきた備前守官途名乗り丹波守護代標榜するうになるが、天文4年1535年)には秀忠晴元方に帰参天文5年1536年8月に、晴国は自害した

※この「細川高国・晴国時代」の解説は、「内藤国貞」の解説の一部です。
「細川高国・晴国時代」を含む「内藤国貞」の記事については、「内藤国貞」の概要を参照ください。

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