細川高国・晴国時代
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丹波内藤氏は代々丹波守護・細川氏に仕え、守護代を務めていた。国貞は同国守護である京兆家当主・細川高国より偏諱を受け、国貞と名乗った。 永正2年(1505年)の時点では幼名の亀満丸を称しているが、永正6年(1509年)には通称の彦五郎を名乗り、守護代として活動している。父・貞正はこの後も丹波で活動しており、大永5年(1525年)に貞正が死去するまでの間、在国する貞正と京都で高国を補佐する国貞とで役割分担していたものと考えられる。 享禄4年(1531年)、細川晴元との戦いで高国が死去すると、国貞は出家して宗周と名乗った。しかしその直後、高国の弟・晴国の擁立に成功し、天文元年(1532年)12月には還俗している。 国貞は晴元と争う晴国を補佐したが、天文2年(1533年)6月、晴国と結ぶ本願寺が晴元方と和睦をすると、晴国から離れて晴元方へと転じた。この時、丹波を地盤とする上原氏や波々伯部氏も晴国方から離反しており、天文元年(1532年)7月に晴国方に帰参した丹波の新興勢力である波多野秀忠の重用への反発が背景にあったと推測される。国貞の離反前後から、秀忠は内藤氏が使用してきた備前守の官途を名乗り、丹波守護代を標榜するようになるが、天文4年(1535年)には秀忠も晴元方に帰参。天文5年(1536年)8月に、晴国は自害した。
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