細川頼之と宮池の大改修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 02:07 UTC 版)
「香川県立亀鶴公園」の記事における「細川頼之と宮池の大改修」の解説
細川清氏が室町幕府から失脚すると、これを機に北朝から南朝へ帰順し、阿波に帰った。その後、1362年阿波から讃岐に来て、高屋城(坂出市)に出陣した。この際、西長尾城(まんのう町)に居た中院源少将と呼応したため、室町幕府2代将軍足利義詮は細川頼之に討たせることとした。細川清氏の遺骸は宝蔵院極楽寺(宮池の北方にある)から引導を渡し、葬られた。その後細川頼之は、宝蔵院を遺徳に感じ、また、民治に心を配った。そして1364年3月24日から4月29日という極めて短時間の間に、東讃六郡の人夫に命令し、宮池を大改築したとされる。
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