細川頼之の幕府内政強化
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「南北朝時代 (日本)」の記事における「細川頼之の幕府内政強化」の解説
正平23年/応安元年(1368年)4月、幼い将軍足利義満が元服し、その烏帽子親となった室町幕府管領細川頼之が実権を握り、名宰相として義満を補佐した。 同年、頼之は寺社本所領事(通称「応安大法」)を発布し、その後も卓越した内政手腕によって幕府の安定性を確立していった。 同年、南朝で強硬派の長慶天皇が即位すると、和平派の楠木正儀は南朝内で孤立することとなった。そのため、翌正平24年/応安2年(1369年)、頼之は調略によって南朝方の中心的武将であった正儀を帰順させることに成功。南朝は強硬路線をとったことで、主要人材を失い、かえって勢力を落とし、幕府方が体制を確立することになってしまった。 文中2年/応安6年(1373年)、頼之は、細川氏春・楠木正儀・赤松光範らを大将とする遠征軍を編成し、天野合戦で南朝重臣の四条隆俊を敗死させ、南朝の臨時首都天野行宮を陥落させることに成功した。 しかし、橋本正督の鎮圧(橋本正督の乱)に失敗、政敵斯波義将らから訴追を受け、義満も鎮圧における頼之の弱腰に批判的であったことから、天授5年/康暦元年(1379年)初頭、康暦の政変で失脚した。
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