細川頼之の就任と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:49 UTC 版)
正平21年/貞治5年(1366年)には斯波高経・義将は佐々木道誉らとの確執で失脚し(貞治の変)、再び将軍の親裁となった。義詮は親裁権強化のために管領(あるいは執事)を廃止することを意図していたとする見方がある。しかし翌年、将軍義詮の死の直前、四国平定や細川清氏討伐などで活躍していた細川頼之が呼ばれて管領に就任する。頼之は幼い3代将軍足利義満を補佐するとともに、幕府体制の安定化に努めた。この時期にかつての二元体制下において足利直義が自派で掌握して執事と対抗関係にあった引付頭人の職権が管領に吸収され、所務遵行命令なども将軍に代わって(義満の成人後はその意向を奉じる形で)発するなど、政務の一切を統括するようになり、引付衆などの業務も政所へ移行するようになった。 この流れは通説では管領の権限の強化と捉えられているが、その一方において高師直以来の歴代の執事はかつての二元体制下において足利尊氏が掌握していた軍事と密接に関連する恩賞や寄進に関する補佐(施行状などの奉書の発給)を主としていたが、南朝の軍事的衰退はその機会を減少させて地位の弱体化をもたらすものであった。こうした危機感の中で管領による他の役職の権限の吸収と新たな権限行使が展開されたと言う側面もあった。諸文書における「管領」の呼称が定着するのも細川頼之の時代以降である。また、足利義満の元服の際には管領かつ従四位下武蔵守であった細川頼之が加冠役(烏帽子親)を務めたことから、室町幕府の将軍が元服する際には管領が加冠役を務め、かつ元服に先立って従四位下武蔵守に任ぜられる(管領になっていなければ管領に任命される)慣例が成立した。 細川頼之は今川了俊を九州探題に任命、九州へ派遣して南朝方の掃討を進め、吉野の南朝とは講和交渉を行いながらこれが不調に終わると楠木正儀を味方につけて南朝を攻撃、南朝の抵抗はほぼ途絶えた。また、応安の半済令を出し、内乱の中で行われてきた半済を所領の折半として恒久化し武士の既得権を認める一方、有力荘園領主(皇室・摂関家・寺社)の一円支配地については除外して保護することで、双方の利害対立に一定の決着を図った。 天授5年/康暦元年(1379年)、頼之は康暦の政変で失脚し、斯波義将が復帰する。斯波氏と細川氏が管領に就任する時代は約40年続いたが、応永5年(1398年)に畠山基国が管領になって以降は、斯波氏・細川氏・畠山氏の3家(#三管領家)から交代で任じられることとなる。また、管領は退任後も将軍から重要問題に関する諮問を受けるなど、幕府内において重きをなした。
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