細川高国との決戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)
その間も高国は再起に向けて執念を燃やし、伊賀の仁木氏、伊勢国司の北畠氏、越前の朝倉氏など諸国を巡って援軍の交渉を繰り返していたが、備前守護代浦上村宗を味方に付けることに成功した。村宗の実力は守護赤松氏を凌ぐほど強勢であったが、将軍支援を名分にさらなる勢力拡大を意図していた。 対する堺公方側は三好元長を失脚させてしまったことで戦力不十分となっており、柳本賢治・松井宗信は将軍側との和睦交渉に乗り出したものの、これは義維・晴元の非難を浴びたため剃髪して謝罪するはめになった。高国・浦上連合軍の侵攻を受けた播磨国衆の要請もあり、賢治は依藤城まで兵を進めたが、享禄3年(1530年)6月に暗殺されてしまう。 高国・浦上軍は8月には摂津へ進出、11月に尼崎城(大物城)を攻め落とす。明けて享禄4年(1531年)2月に伊丹城、3月6日に池田城を落城させた。3月7日には京都も、堺公方側の河内守護代木沢長政が守備を放棄して逃亡したため高国側に帰し、将軍義晴も近江坂本まで出張した。 細川晴元から矢の催促を受けた三好元長は阿波を立ち2月21日には堺に上陸していたが、南下してきた高国・浦上軍の先鋒を3月10日に撃退。25日には阿波守護細川持隆の来援を得、それから2ヶ月間のにらみ合い(天王寺の戦い)が続いたが、6月2日に浦上村宗の主君である播磨守護赤松政村が高国・浦上軍の後詰めに到着した。ところが実は堺公方に人質を送って内応を約していた政村が同4日に背後から襲い掛かり、高国・浦上軍は逃走した(大物崩れ)。尼崎まで退いた高国は三好一秀に捕らえられて切腹を命じられ、6月8日に自害した。
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