細川政元の3人の養子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:15 UTC 版)
明応2年(1493年)、第27代室町幕府管領職に就いていた細川政元は第10代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていたために実子はおらず、兄弟もいなかったため細川京兆家には政元の後継者がなく、関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしたため、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。応仁の乱で諸大名家が跡継ぎ争いを起こし弱体化を招く中、細川家では勝元の後継者に養子の勝之を推す動きは一部であったものの、勝元の実子である政元が嫡男として継承することでまとまっており、その結果政元の時代には細川家は幕府の中での地位をより強固にすることができた。しかしその政元に血縁の近しい後継者がおらず、ここにきて他大名家よりも一代遅れで京兆家にも跡継ぎ争いが発生するに至ったのである。 永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。
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