細川政権期
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しかし、元長の嫡男・長慶が晴元に仕えるようになると、天文8年(1539年)に長慶と河内十七箇所の代官職を巡って対立。天文8年(1539年)閏6月に長慶が十七箇所の返還を掲げ軍を率いて上洛すると晴元は京都北西の高雄(現在の京都市右京区)へ避難、政長は4月の時点で丹波で蟄居していたが、晴元の支援で兵を集め7月に京都で長慶と小規模な戦闘を繰り返した。この争いは近江の六角定頼と将軍義晴の調停で長慶と和睦、長慶は細川政権下で重用されるようになる。 それからは長慶と軍事行動を共にするようになり、天文10年(1541年)から翌11年(1542年)にかけての長政討伐及び太平寺の戦い、天文14年(1545年)に山城南部で起こった上野元治・元全父子の反乱鎮圧、天文15年(1546年)の細川氏綱の反乱に呼応した摂津国人の討伐、翌天文16年(1547年)の舎利寺の戦いなど晴元方の部将として長慶と共に出陣していった。天文13年(1544年)5月に晴元の勧めで隠居、嫡男政勝(宗渭)に家督を譲ったが、形ばかりの隠居で以後も晴元の腹心としての地位を保持し続けたために長慶を始め周囲の反発を招いた。 天文17年(1548年)5月6日、政長の婿である摂津国人池田城主池田信正が晴元の命令で切腹させられた。信正は天文15年の氏綱の反乱に加担して晴元に反抗したが降参して許されていた。しかし、舅である政長が晴元に讒言し、一度許された身であるのにもかかわらず切腹に追いやった。信正の後を継いだのは息子で政長の外孫でもある長正だが、これによって池田家中は政長の息のかかった者が家政を壟断し、政長自身も池田家の宝物を手中にするなどした為、政長の介入に長慶を初め他の摂津国人衆が反発、10月には長慶がかつての敵だった氏綱と遊佐長教と結び、長慶派の国人も呼応して政長を排斥するために反乱を起こした。長慶には、氏綱・長教と、家中から政長派を放逐した池田長正、政長を嫌っている摂津国人衆、丹波の内藤国貞、和泉の松浦氏などが味方に付いた。こうして三好政長に対する反乱は細川晴元に対する反乱へと拡大していった。一方の政長は主君の晴元と義晴・六角定頼を味方に引き入れるのには成功したが、摂津の味方は茨木長隆・伊丹親興ぐらいしかなく、榎並城に籠城していた息子の為三は三好軍に包囲され危機に陥っていた。
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