細川政権期とは? わかりやすく解説

細川政権期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 05:26 UTC 版)

三好政長」の記事における「細川政権期」の解説

しかし、元長の嫡男長慶晴元仕えるようになると、天文8年1539年)に長慶河内十七箇所代官職巡って対立天文8年1539年)閏6月長慶十七箇所返還掲げ軍を率いて上洛すると晴元京都北西高雄現在の京都市右京区)へ避難、政長は4月時点丹波蟄居していたが、晴元支援で兵を集め7月京都長慶小規模な戦闘繰り返した。この争い近江六角定頼将軍義晴調停長慶和睦長慶細川政権下で重用されるようになる。 それからは長慶軍事行動共にするようになり、天文10年1541年)から翌11年1542年)にかけての長政討伐及び太平寺の戦い天文14年1545年)に山城南部起こった上野元治・元全父子の反乱鎮圧天文15年1546年)の細川氏綱反乱呼応した摂津国人の討伐、翌天文16年1547年)の舎利寺の戦いなど晴元方の部将として長慶と共に出陣していった天文13年1544年5月晴元勧め隠居嫡男政勝(宗渭)に家督譲ったが、形ばかり隠居以後晴元腹心としての地位保持し続けたために長慶始め周囲反発招いた天文17年1548年5月6日、政長の婿である摂津国池田城池田信正晴元命令切腹させられた。信正天文15年の氏綱の反乱加担して晴元反抗した降参して許されていた。しかし、舅である政長が晴元讒言し一度許された身であるのにもかかわらず切腹追いやった。信正の後を継いだのは息子で政長の外孫でもある長正だが、これによって池田家中は政長の息のかかった者が家政壟断し、政長自身池田家宝物手中にするなどした為、政長の介入長慶初め他の摂津国人衆が反発10月には長慶がかつての敵だった氏綱と遊佐長教と結び、長慶派の国人呼応して政長を排斥するために反乱起こした長慶には、氏綱・長教と、家中から政長派を放逐した池田長正、政長を嫌っている摂津国人衆、丹波内藤国貞和泉松浦氏などが味方付いた。こうして三好政長対す反乱細川晴元対す反乱へと拡大していった。一方の政長は主君晴元義晴六角定頼味方引き入れるのには成功したが、摂津味方茨木長隆伊丹親興ぐらいしかなく、榎並城籠城していた息子為三三好軍に包囲され危機に陥っていた。

※この「細川政権期」の解説は、「三好政長」の解説の一部です。
「細川政権期」を含む「三好政長」の記事については、「三好政長」の概要を参照ください。

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