細川晴元への帰参と堺公方府
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「茨木長隆」の記事における「細川晴元への帰参と堺公方府」の解説
中央で12代将軍・足利義晴を補佐し、それまで約20年間京都を支配してきた管領・細川高国が、大永7年(1527年)2月細川晴元軍の三好元長・柳本賢治らに京都桂川で攻められて敗北した桂川原の戦いで、茨木長隆は他の摂津国衆と共に晴元側に帰参した。足利義晴と細川高国は近江国へ脱出。以後、長隆は奉行人として京都代官を任され、晴元政権の中心的役割を果たすことになる。義晴の庶兄(弟とする説もある)足利義維を擁する晴元政権は、「堺公方」と呼ばれる擬似的幕府機構を組織して畿内の統治に臨み、幼い晴元を三好元長ら細川家根本被官と茨木氏などの摂津国衆が支える体制となった(柳本賢治は元長と対立して陣没)。享禄4年(1531年)3月には大物崩れで木沢長政(畠山義堯の臣)・三好元長らと共に細川高国を破り、捕縛された高国は晴元の命で自害させられた。
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