晴元政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:40 UTC 版)
「細川政権 (戦国時代)」の記事における「晴元政権」の解説
高国の死後、三好元長に擁されて細川京兆家の家督を継いだのは澄元の子の細川晴元である。しかし享禄5年(1532年)に三好政長・木沢長政や茨木長隆の讒言を受けて、本願寺第10世証如を通じて一向一揆を動かし、一揆軍に対する敗戦責任を口実として元長を誅殺し、堺幕府と決別した。一向一揆の暴走(天文の錯乱)には法華一揆・六角定頼の力を借りて戦い、天文5年(1536年)に和睦、京都で勢力を伸ばした法華一揆は定頼と比叡山延暦寺に与して鎮圧(天文法華の乱)、京都の安定を確保して将軍・義晴と和睦、義晴を傀儡とした管領晴元による幕政が行われた(もっとも、晴元が継承できたのは細川京兆家の家督のみで、高国の死後管領職は廃絶となったとする異説もある。また、当時の幕政は将軍と内談衆ら側近による合議制に移行して管領の職務は儀礼的なものに限定され、細川京兆家も管領職の任免によって将軍に統制されることを望まず、将軍の後見人として実質的権力を振るう方針を採ったとする指摘もある)。 だが、30年に及んだ両細川の内紛によって細川氏一門およびその領国が二分されただけではなく、細川京兆家を支えていた内衆の多くが討たれたり追放されたりして姿を消し、細川政権はその政治的・軍事的基盤を失うことになった(特に大物崩れでは滅亡した高国陣営に譜代の内衆が多く、室町期から受け継がれてきた細川京兆家の持つ政治的ノウハウを喪失させることになり、同家の政治力低下につながった)。更に細川氏の守護や内衆によって抑圧の対象となっていた国人が内紛の混乱に乗じて在地において力を伸ばすことで、在京生活が多く在地における基盤を固めきれなかった内衆は没落し、あるいはその動きに対抗するために在地に戻って自らも国人領主化していった。こうした事態に対応するために細川政権は体勢の立て直しに迫られた。1つは外部勢力の支援を受けて支持基盤を強化する方法である。もう1つは三好氏や茨木氏といった本来内衆には加えられていなかった有力国人を政権に取り込んでいく方法である。細川高国が大内義興と結んだのは前者の戦略によるもので、細川晴元が京兆家にとっては外様である三好元長・長慶父子や茨木長隆を守護代に抜擢にしたのは後者の戦略によるものであった。高国・晴元を通じて細川氏の守護としての領国は解体され、内衆は完全に姿を消すことになる。この時点で細川政権の前提となる細川氏一族の同族連合と内衆の合議制に基づく意思決定が放棄されたのである。
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