晴元政権における長隆の地位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 09:58 UTC 版)
「茨木長隆」の記事における「晴元政権における長隆の地位」の解説
今谷明は、この時期の幕府奉行人奉書に関する研究から、茨木長隆の政治的地位の高さを指摘した。従来、晴元政権における重要人物は初期には柳本賢治・三好元長、後期には木沢長政らが知られていたが、長隆に言及されることはほとんど無かった。だが今谷は、柳本・三好ら重要人物(山城守護代クラス)へも奉書を下している茨木長隆の方が地位は上であったとする。長隆が連署した奉書あるいは長隆発給の添状は、細川氏の領国経営のみならず、幕府奉行人への指示も含み、その政治的位置は管領代(右京兆代)ともいうべき地位にあった。すなわち、形式的な主君である足利義維(のち義晴)・細川晴元に次ぐ地位であり、実質的な畿内の最高実力者とする説である。この地位は後に細川氏綱を形式的主君としながらも、実質的に畿内支配の実力者となった三好長慶とほぼ同様のものであった。 ただし「堺幕府論」などと同様、茨木氏の過大視傾向も他の論者の反論を受け、近年では今谷の説も若干トーンダウンしている。そのためもあり、茨木長隆および「管領代」の位置づけについては、今なお確定しているとは言い難い。
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