晴元との対立・将軍職譲渡
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「足利義晴」の記事における「晴元との対立・将軍職譲渡」の解説
天文12年(1543年)7月25日、細川氏綱が晴元打倒の兵を挙げ、一万の兵を率い、和泉・河内・紀伊の三国の国境にある槙山城施福寺に入った。また、氏綱の2人の弟・細川藤賢と細川勝国、細川一族の細川国慶や細川高益、長塩氏や赤沢氏も味方していた。さらに、氏綱の妹を妻としていた畠山稙長やその家臣の遊佐長教、紀伊の根来寺の加勢もあり、一大勢力となった。だが、義晴は晴元支持の姿勢を変えなかった。 同月25日、氏綱が堺を攻撃するも、晴元方の和泉守護代の松浦守に撃退された。さらに、8月16日に晴元の命を受けた長慶が堺に出陣し、10月12日に氏綱方の玉井氏を破ると、翌日に氏綱は撤退した。 天文14年(1545年)5月6日、細川国慶が南山城の井出城を攻略し、丹波では内藤国貞が挙兵した。だが、氏綱方の畠山稙長がこの頃に死去したため、士気は上がらなかった。 5月24日、晴元は定頼からの支援を得て、長慶や政長を従えて、2万余の大軍で宇治田原や寺田に出兵した。戦いは晴元の圧勝に終わり、京へ帰還すると、7月に長慶が内藤国貞を攻め、27日に国貞が籠城する関の山城を攻略した。 天文15年(1546年)8月16日、南近畿で氏綱と長教の動きを見て、晴元の命を受けた長慶が堺に出陣した。だが、長慶は氏綱の大軍に堺で包囲されたため、退却を余儀なくされた。氏綱は軍を進め、9月に三宅国村や池田信正が氏綱に味方したため、晴元方の摂津における味方は伊丹親興しかいなくなった。 9月13日、細川国慶が京都を制圧したことで、晴元が丹波に落ちのびた。一方で、上野元治が晴元の手に義晴が落ちるのを防ぐため、同日に河内から入京したが、義晴も東山慈照寺(銀閣寺)に入った。一方、畠山政国の重臣・遊佐長教は秘かに使者を義晴のもとに派遣し、氏綱への支持を求めた。義晴は晴元の苦境を見て、晴元を排斥しようと画策した。 10月20日、長慶の長弟・三好実休が2万の軍勢を率い、阿波から堺に渡海した。また、長慶の次弟・安宅冬康も淡路から軍勢を率いて駆け付けた。 そして、11月13日には晴元が丹波から戻り、神呪寺に入った。 11月、義晴は三好軍が続々と上洛するのを見て、北白川の将軍山城(瓜生山城)を改修し、入城した。また、山科七郷から人夫を狩り出し、年貢の三分の一を御城米として借りた。さらに、同月2日には伊予の河野通直、豊後の大友義鑑に対し、三好勢を阿波と讃岐に退かせるように命じている。 12月18日、義晴は嫡子の義藤とともに慈照寺を出て、近江坂本に避難した。そして、19日に義藤を日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で元服させ、六角定頼に烏帽子親を務めさせた。そして、翌20日には朝廷の勅使を坂本に招き、義藤の将軍宣下を行わせ、義晴は将軍職を譲った(『光源院殿御元服記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。 当時の室町幕府の慣例では、将軍または後継者が元服する際には、父である将軍か管領が烏帽子親を務めることになっており、近年の研究では管領の常設はなくなったとされている戦国期の室町幕府においても元服の際には管領の任命が行われていた。ところが、義晴は三管領の家ではない六角定頼を管領代に任じて義藤の烏帽子親としたのである。これは当時、晴元も氏綱も近江坂本に駆けつけられる情勢に無かった(逆にいずれかが坂本に居た場合にはその者が管領に任命されていた筈である)ことに加え、義晴と晴元の関係が悪化しており、氏綱を烏帽子親にすることに対しては晴元の舅である六角定頼が抵抗したため、最終的には義晴を庇護する定頼への配慮から彼を烏帽子親に任じる選択をしたと考えられている。なお、当時の坂本には定頼だけではなく、氏綱派の遊佐長教もおり、氏綱を烏帽子親にすべく画策していたが、晴元派の六角定頼が烏帽子親となったため、義輝の元服の儀には欠席し、翌日の将軍宣下の儀に畠山政国の名代として参列している。 一連の行動は、義晴がかつての先例に倣ったものであったされ、その先例を息子にも踏襲させようとした可能性が指摘されている。義晴は大永元年(1521年)12月・当時11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。また、朝廷は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義輝の将軍宣下の翌日に義晴を右近衛大将に急遽任じている。 同月の末、義晴は義藤とともに坂本を離れ、京の慈照寺に戻った。以後は大御所として、幼少の義輝を後見した。 天文16年(1547年)正月26日、義晴は義藤とともに内裏に参内して、後奈良天皇に拝謁し、賀事を献じた。 3月29日、義晴は義藤や近衛稙家とともに将軍山城に入り、氏綱になおも味方することを表明した。義晴は没落気味であった細川晴元と決別し、細川氏綱と手を結んだが、晴元も黙ってはいなかった。晴元は報復として、阿波に逼塞していた義晴の兄弟・足利義維を擁立し、対抗する意思を示した。 他方、義晴と晴元の仲違いは、六角定頼を悩ませた。定頼にとって、義晴は晴元とともにこれまで支えてきた同志であり、義藤もまた自身が烏帽子親を務めた人物だった。一方の晴元もまた、自身の息女が嫁いだ娘婿であり、近しい存在であった。もし、晴元に味方すれば、義藤の将軍としての権威を否定し、義維を将軍として認めることになってしまった。 そのため、定頼は義晴・義藤父子と晴元を和解させようとした。その一環として、大阪本願寺に嫁ぐことが内定していた晴元の息女を、義藤の御台所にしようと画策した。だがこの話は強引すぎたため、うまくいかなかった。その間にも、義晴・義藤と晴元の関係は悪化し、晴元は各地で氏綱派を打ち負かし、京へと迫った。 7月12日、義藤と義晴の籠城する将軍山城は、定頼と晴元の大軍に包囲された。定頼は父子に対して、晴元との和解を強いた。義晴は思いもよらない事態に進退を窮し、諸将を集めて、どうすべきかと諮問した。 この定頼の背反に関しては、定頼は義晴の支援者であると同時に晴元の舅でもあり、義晴による晴元切り捨ては容認できなかったと考えられている。足利将軍の一貫した支持者であると同時に六角氏と晴元との同盟を堅持する定頼の存在は、義晴の対細川京兆家の方針を拘束することになり、細川氏綱や三好長慶が細川晴元と敵対することで、本人の意思と関わりなく足利将軍とも敵対せざるを得なくなってしまう構造となったのである。 7月15日、六角定頼は将軍山城包囲中のさなか、秘かに義晴に使者を送って晴元との和平の仲介を行っている。定頼の背反により、義晴は成す術を失い、全面的にその要求を受け入れざるを得なくなった。 7月19日、義晴は将軍山城に火を放ち、城を出て近江坂本に向かった(『御湯殿上日記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。その後、21日に三好長慶や三好政長らの軍勢が天王寺の東・舎利寺において、氏綱、畠山政国、遊佐長教の軍勢に大勝した(舎利寺の戦い)。 7月29日、義晴は舎利寺の戦いの報告を伝え聞くと、定頼の仲介のもと、晴元と坂本で和睦した。近江が定頼の領国のため、表面上は晴元・定頼らの罪科を赦免とするという名目の下での和睦であった(『足利季世記』『続応仁後記』『厳助大僧正記』)。このとき、義藤は晴元と面会したが、義晴は晴元と面会しなかった。他方、この和解により、晴元の支援していた足利義維は立場がなくなり、同年12月に堺から淡路に退去し、四国へと戻った。 この一連の争いは、細川氏の内部にも大きな影響をもたらした。細川晴元は義晴・義藤父子、細川氏綱、六角定頼に成す術もなく、三好長慶とその舎弟の力を借りざるを得なかった。その一方、長慶は弟たちと協力し、京から義晴を退去させた自身の力量を見て、父の仇敵である晴元からの独立を考えるようになった。また、『細川両家記』には長慶がこの頃に範長から名を改めたことに関連して、政長・政生父子を晴元が成敗しない場合、自身が晴元を討ち果たす、内々の協議で決定したことが記されている。
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