晴元との対立・将軍職譲渡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 晴元との対立・将軍職譲渡の意味・解説 

晴元との対立・将軍職譲渡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:09 UTC 版)

足利義晴」の記事における「晴元との対立・将軍職譲渡」の解説

天文12年1543年7月25日細川氏綱晴元打倒兵を挙げ一万の兵を率い和泉河内・紀伊の三国国境にある槙山城施福寺入ったまた、氏綱の2人の弟・細川藤賢細川勝国細川一族の細川国慶細川高益、長塩氏や赤沢氏味方していた。さらに、氏綱の妹を妻としていた畠山稙長やその家臣遊佐長教紀伊根来寺加勢もあり、一大勢力となった。だが、義晴晴元支持姿勢変えなかった。 同月25日、氏綱が堺を攻撃するも、晴元方の和泉守護代の松浦守撃退された。さらに、8月16日晴元の命を受けた長慶が堺に出陣し10月12日に氏綱方の玉井氏を破ると、翌日に氏綱は撤退した天文14年1545年5月6日細川国慶南山城井出城を攻略し丹波では内藤国貞挙兵した。だが、氏綱方の畠山稙長この頃死去したため、士気は上がらなかった。 5月24日晴元は定頼からの支援得て長慶や政長を従えて2万余の大軍宇治田原寺田出兵した。戦い晴元圧勝終わり、京へ帰還すると、7月長慶内藤国貞攻め27日国貞籠城する関の山城を攻略した天文15年1546年8月16日南近畿で氏綱と長教の動き見て晴元の命を受けた長慶が堺に出陣した。だが、長慶は氏綱の大軍に堺で包囲されたため、退却余儀なくされた。氏綱は軍を進め9月三宅国村池田信正が氏綱に味方したため、晴元方の摂津における味方伊丹親興かいなくなった。 9月13日細川国慶京都制圧したことで、晴元丹波落ちのびた。一方で上野元治晴元の手義晴落ちるのを防ぐため、同日河内から入京したが、義晴東山慈照寺銀閣寺)に入った一方畠山政国重臣遊佐長教秘かに使者義晴のもとに派遣し、氏綱への支持求めた義晴晴元苦境見て晴元排斥しようと画策した。 10月20日長慶長弟三好実休2万軍勢率い阿波から堺に渡海した。また、長慶次弟安宅冬康淡路から軍勢率いて駆け付けた。 そして、11月13日には晴元丹波から戻り神呪寺入った11月義晴三好軍が続々上洛するのを見て北白川将軍山城瓜生山城)を改修し入城したまた、山科七郷から人夫狩り出し年貢三分の一御城米として借りた。さらに、同月2日には伊予河野通直豊後大友義鑑対し三好勢阿波讃岐退かせるように命じている。 12月18日義晴嫡子の義とともに慈照寺出て近江坂本避難した。そして、19日に義日吉神社(現日吉大社祠官樹下成保の第で元服させ、六角定頼烏帽子親務めさせた。そして、翌20日には朝廷勅使坂本招き、義将軍宣下を行わせ、義晴将軍職譲った(『光源院殿御元服記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。 当時室町幕府慣例では、将軍または後継者元服する際には、父である将軍管領烏帽子親務めることになっており、近年の研究では管領常設なくなったとされている戦国期室町幕府においても元服の際には管領任命が行われていた。ところが、義晴三管領の家ではない六角定頼管領代任じて烏帽子親としたのである。これは当時晴元も氏綱も近江坂本駆けつけられる情勢無かった逆にいずれか坂本居た場合にはその者が管領任命されていた筈である)ことに加え義晴晴元の関係が悪化しており、氏綱を烏帽子親にすることに対して晴元の舅である六角定頼抵抗したため、最終的に義晴庇護する定頼への配慮から彼を烏帽子親任じる選択をしたと考えられている。なお、当時坂本には定頼だけではなく、氏綱派の遊佐長教もおり、氏綱を烏帽子親にすべく画策していたが、晴元派の六角定頼烏帽子親となったため、義輝元服の儀には欠席し翌日将軍宣下の儀に畠山政国名代として参列している。 一連の行動は、義晴がかつての先例倣ったものであったされ、その先例を息子にも踏襲させようとした可能性指摘されている。義晴大永元年1521年12月当時11歳元服将軍宣下行ったことに加え自身健在のうちに実子将軍地位譲ってこれを後見する考えがあったとされるまた、朝廷義晴このまま政務京都警固の任を放棄することを憂慮し引き留め意図含めて義輝将軍宣下翌日義晴右近衛大将急遽任じている。 同月の末、義晴は義とともに坂本離れ、京の慈照寺戻った以後大御所として、幼少義輝後見した。 天文16年1547年正月26日義晴は義とともに内裏参内して後奈良天皇拝謁し、賀事を献じた3月29日義晴は義近衛稙家とともに将軍山城入り、氏綱になおも味方することを表明した義晴没落気味であった細川晴元決別し細川氏綱手を結んだが、晴元黙ってはいなかった。晴元報復として、阿波逼塞していた義晴兄弟足利義維擁立し対抗する意思示した他方義晴晴元仲違いは、六角定頼悩ませた。定頼にとって、義晴晴元とともにこれまで支えてきた同志であり、義もまた自身烏帽子親務めた人物だった。一方晴元また、自身息女嫁いだ娘婿であり、近しい存在であった。もし、晴元味方すれば、義将軍として権威否定し、義維を将軍として認めることになってしまった。 そのため、定頼は義晴・義父子晴元和解させようとした。その一環として大阪本願寺嫁ぐことが内定していた晴元息女を、義御台所にしようと画策した。だがこの話は強引すぎたため、うまくいかなかった。その間にも、義晴・義晴元の関係は悪化し晴元各地で氏綱派を打ち負かし、京へと迫った7月12日、義義晴籠城する将軍山城は、定頼と晴元大軍包囲された。定頼は父子に対して晴元との和解強いた義晴思いもよらない事態進退窮し諸将集めてどうすべきかと諮問した。 この定頼の背反に関しては、定頼は義晴支援者であると同時に晴元の舅でもあり、義晴による晴元切り捨て容認できなかったと考えられている。足利将軍一貫した支持者であると同時に六角氏晴元との同盟堅持する定頼の存在は、義晴の対細川京兆家方針拘束することになり、細川氏綱三好長慶細川晴元敵対することで、本人意思関わりなく足利将軍とも敵対せざるを得なくなってしまう構造となったのである7月15日六角定頼将軍山城包囲中のさなか、秘かに義晴使者送って晴元との和平仲介行っている。定頼の背反により、義晴は成す術を失い全面的にその要求受け入れざるを得なくなった7月19日義晴将軍山城火を放ち、城を出て近江坂本向かった(『御湯殿上日記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。その後21日三好長慶三好政長らの軍勢天王寺の東・舎利寺において、氏綱、畠山政国遊佐長教軍勢大勝した舎利寺の戦い)。 7月29日義晴舎利寺の戦い報告伝え聞くと、定頼の仲介のもと、晴元坂本和睦した近江が定頼の領国のため、表面上は晴元・定頼らの罪科赦免とするという名目の下での和睦であった(『足利季世記』『続応仁後記』『厳助大僧正記』)。このとき、義晴元面会したが、義晴晴元面会しなかった。他方、この和解により、晴元支援していた足利義維立場なくなり同年12月に堺から淡路退去し四国へと戻った。 この一連の争いは、細川氏内部にも大きな影響もたらした細川晴元義晴・義父子細川氏綱六角定頼に成す術もなく、三好長慶とその舎弟の力を借りざるを得なかった。その一方長慶弟たち協力し、京から義晴退去させた自身力量見て父の仇敵である晴元からの独立考えようになったまた、細川両家記』には長慶この頃範長から名を改めたことに関連して、政長・政父子晴元成敗しない場合自身晴元討ち果たす内々協議決定したことが記されている。

※この「晴元との対立・将軍職譲渡」の解説は、「足利義晴」の解説の一部です。
「晴元との対立・将軍職譲渡」を含む「足利義晴」の記事については、「足利義晴」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「晴元との対立・将軍職譲渡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「晴元との対立・将軍職譲渡」の関連用語

晴元との対立・将軍職譲渡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



晴元との対立・将軍職譲渡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの足利義晴 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS