細川勝国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 細川勝国の意味・解説 

細川勝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 19:17 UTC 版)

 
細川勝国
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 三郎(通称)、左衛門佐
官位 左衛門佐
幕府 室町幕府
主君 細川高国細川氏綱
氏族 細川典厩家
父母 父:細川尹賢、義父:細川宗寅
兄弟 氏綱藤賢勝国
後継者:細川駿河守
テンプレートを表示

細川 勝国(ほそかわ かつくに)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将

概要

永正17年(1520年)5月15日、勝国は兄の氏綱藤賢とともに父の尹賢に連れられて近衛尚通の邸宅を訪ねている。この時は尚通が風呂に入っていたため対面はできず、4日後には尹賢の弟で細川駿河守家の当主であった駿河左衛門佐(駿河入道宗寅)が勝国ら3人を引率して尚通と対面している。馬部隆弘は氏綱・藤賢と勝国は異母兄弟であるか、勝国が藤賢より年上の養子であると推察している。後に勝国は左衛門佐を名乗り細川駿河守家を継承したが、叔父の左衛門佐が勝国ら兄弟を引率したのは、尹賢の子の誰かが当時から駿河守家を継承する計画があったからであると考えられる。藤賢は仮名が四郎であり当初左衛門佐の養子となり駿河守家を継承する予定であったが、細川高国細川稙国がいなくなり氏綱が細川京兆家を継承することになったため、藤賢が細川典厩家を継ぎ、兄が継ぐはずであった駿河守家を勝国が継いだ。細川高国 は京兆家・典厩家(細川尹賢)・細川房州家細川晴国)の三家体制を整え、氏綱の下では房州家ではなく駿河守家をもって体制が再現されたが、勝国が房州家を継がなかったのは細川通董が房州家を継承していたからである[1][2]

勝国は駿河守家の当主となっても駿河守を名乗らなかった。これは、養父である細川宗寅が敵対していた足利義栄方に下っていたからであると考えられる[3]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 天野忠幸『戦国武将列伝 畿内篇下』(戎光祥出版、2023年)
  2. ^ 馬部隆弘「細川晴国・氏網の出自と関係」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)
  3. ^ 天野忠幸『戦国武将列伝 畿内篇下』(戎光祥出版、2023年)

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  細川勝国のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「細川勝国」の関連用語

細川勝国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



細川勝国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの細川勝国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS