政権内部の暗闘と一揆勢力
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「茨木長隆」の記事における「政権内部の暗闘と一揆勢力」の解説
以後、晴元政権の下で三好元長が擡頭するが、将軍義晴との和睦問題を巡って間もなく晴元と不和となる。長隆もまた、元長と仲の悪い同族の三好政長や木沢長政と組み、元長と対立した。元長が畠山義堯と組んで木沢の飯盛山城を攻めると、翌天文元年(1532年)長隆ら摂津国衆は一向一揆を煽動し、逆に義堯・元長を堺の顕本寺に追い詰めて、自害に追い込んだ。ここに堺公方府は崩壊する。 だがこの後、長隆ら摂津国衆と一向一揆衆の確執が表面化する。急進化した一揆衆は、京都山科に本山を構える法主証如の意向と関わりなく暴走し、翌年にかけて晴元政権と各地で激しく戦った。摂津国衆側は一向一揆に対抗するため、京都代官であった長隆が堺へ下向。河内国守護代の木沢長政に浄土真宗の浅香道場を焼き討ちさせた。その一方、証如率いる一向門徒の堺攻撃に対抗して、諸宗僧徒の動員を決行。長隆は京都の法華一揆(日蓮宗徒の京都町衆)と結び、8月24日山科本願寺を襲撃した。こうして一向一揆勢力を京都から一掃する(→享禄・天文の乱)。 しかし、頑強に抵抗を続ける一向門徒は摂津石山に本願寺を移し、引きつづき晴元政権と対抗した。この攻勢に耐えかね、天文2年(1533年)2月には細川晴元・茨木長隆主従は淡路島への逃亡を余儀なくされる。6月20日阿波国から大坂に渡った三好元長の嫡男千熊丸(後の長慶)の仲介により、証如との和睦が成立。しかしこの間、京都は木沢長政の軍が僅かに残ったほかは、一向門徒を追い払って増長した法華一揆の自検断が支配する無政府状態に置かれた。 これは荘園制を基盤とする公家・寺社など京都の諸権門の危機であり、それらに依存する晴元・長隆らの忌むところでもあった。ここに長隆らは法華一揆とも対立するようになり、天文5年(1536年)には六角定頼及び比叡山延暦寺等の兵力を利用して京都の法華一揆を弾圧(天文法華の乱)。ようやく細川晴元政権の京都での安定を確立する。
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