政権内部の暗闘と一揆勢力とは? わかりやすく解説

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政権内部の暗闘と一揆勢力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 09:58 UTC 版)

茨木長隆」の記事における「政権内部の暗闘と一揆勢力」の解説

以後晴元政権の下で三好元長擡頭するが、将軍義晴との和睦問題巡って間もなく晴元不和となる。長隆また、元長と仲の悪い同族三好政長木沢長政組み、元長と対立した。元長が畠山義堯組んで木沢飯盛山城攻めると、翌天文元年1532年長隆摂津国衆は一向一揆煽動し逆に義堯・元長を堺の顕本寺追い詰めて自害追い込んだ。ここに堺公方府は崩壊する。 だがこの後長隆摂津国衆と一向一揆衆の確執表面化する急進化した一揆衆は、京都山科本山構え法主証如意向関わりなく暴走し翌年にかけて晴元政権各地激しく戦った摂津国衆側は一向一揆対抗するため、京都代官であった長隆が堺へ下向河内国守護代木沢長政浄土真宗浅香道場焼き討ちさせた。その一方証如率い一向門徒の堺攻撃対抗して諸宗僧徒動員決行長隆京都法華一揆日蓮宗徒の京都町衆)と結び、8月24日山科本願寺襲撃した。こうして一向一揆勢力京都から一掃する(→享禄・天文の乱)。 しかし、頑強に抵抗続け一向門徒摂津石山本願寺移し、引きつづき晴元政権対抗した。この攻勢に耐えかね、天文2年1533年2月には細川晴元茨木長隆主従淡路島への逃亡余儀なくされる6月20日阿波国から大坂渡った三好元長嫡男千熊丸(後の長慶)の仲介により、証如との和睦成立。しかしこの間京都木沢長政の軍が僅かに残ったほかは、一向門徒追い払って増長した法華一揆自検断支配する無政府状態置かれた。 これは荘園制基盤とする公家・寺社など京都の諸権門危機であり、それらに依存する晴元長隆らの忌むところでもあった。ここに長隆らは法華一揆とも対立するようになり、天文5年1536年)には六角定頼及び比叡山延暦寺等の兵力利用して京都法華一揆弾圧天文法華の乱)。ようやく細川晴元政権京都での安定確立する

※この「政権内部の暗闘と一揆勢力」の解説は、「茨木長隆」の解説の一部です。
「政権内部の暗闘と一揆勢力」を含む「茨木長隆」の記事については、「茨木長隆」の概要を参照ください。

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