一向一揆勢力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
今まで述べてきたように、「田屋川原の戦い」はそもそも実在自体が疑われるものであり、「闘静記」が述べるようにこの戦いによって一挙に一向一揆による砺波郡支配が確立されたとは考えがたい。この点について、久保尚文は文明13年中に加賀国河北郡刈野村の年貢滞納が問題になっていることを挙げ、「田屋川原の戦い」における一向一揆側の勝利は、砺波郡において国人領主(石黒氏)が没落したことよりも、むしろ越中に逃亡していた加賀衆が帰国し活動を活発化させたことにこそ意義があると論じている。すなわち、「田屋川原の戦い」は加賀国内の間題が砺波郡に波及したものに過ぎず、長享2年の加賀一向一揆による富樫政権の打倒、いわゆる「百姓の持ちたる国」の建設への助走になったことにこそこの戦闘の歴史的意義があったと論じている。しかし、加賀国において一向一揆支配が一挙に確立したのとは裏腹に、越中における一向一揆支配は複雑な過程を辿って成立していった。 「田屋川原の戦い」が砺波郡内部の問題に留まったのに対し、 越中全体を巻き込み情勢を一変させたのが永正3年の一向一揆であった。この年、一向一揆勢は越中国中央部を支配する神保慶宗の協力を得て越後守護代の長尾能景を敗死させ、越中全域を占領するに至った。しかし、越後において長尾能景の息子為景が跡を継ぐと越中守護島山尚順の協力を得て永正12年より越中への侵攻を開始し、大永2年まで越中では守護勢力と一向宗勢力との間で激戦が繰り広げられた(360頁)。当初、畠山尚順は越中東部の新川郡の守護代職を長尾為景に譲り、西部の婦負郡・砺波郡には神保慶明·遊佐慶親を守護代として守護支配体制の復活を図っていたようであるが、一向一揆との戦いが膨着状態に陥ったこと、島山尚順自身の政治的没落によって大水3年までに品山家と本願寺の間で和議が結ばれるに至った。永正年間の一連の争乱は明確な勝者を生まないままに和睦に至り、越中は名目上「畠山殿分国」のままとされた。しかし、一連の戦乱を経て越中国内には一同宗の勢力が十分に浸透しており、婦負郡においては畠山家の支援を受けた神保慶明は失脚し、一向宗と協力関係を取った神保長識が台頭した。
※この「一向一揆勢力」の解説は、「田屋川原の戦い」の解説の一部です。
「一向一揆勢力」を含む「田屋川原の戦い」の記事については、「田屋川原の戦い」の概要を参照ください。
- 一向一揆勢力のページへのリンク