一向一揆禁止令の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 22:37 UTC 版)
「般若野の戦い (戦国時代)」の記事における「一向一揆禁止令の影響」の解説
ところが翌年早々、越中一向一揆が蜂起し、長尾為景は鎮圧に忙殺されることになる。これは長尾為景が越後で出した一向一揆禁止令が引き金になったともいわれる。越中一向一揆との戦いは大永2年(1522年)5月、細川高国の調停によって和睦が成立するまで続き、以後長尾為景は再び越後国内の反対派との戦いに専念する。 だが、永正3年にすでに出された越前朝倉氏の本願寺門徒の禁止令に続いて大永元年(1521年)に越後長尾氏が出した禁止令は、一向一揆を長尾能景の仇と憎む長尾為景、そしてその子・上杉謙信(上杉謙信)へと引き継がれていく。朝倉氏・長尾氏(後の越後上杉家)の一向一揆への敵愾心は3者共通の敵である織田信長が出現した後もなかなか解消されず、いわゆる「信長包囲網」が機能しなかった理由の1つとして挙げられることもある。
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