一向の時衆(一向宗)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 13:55 UTC 版)
東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成していた。なお、かつて大橋俊雄らにより、鎌倉時代末期に書かれた『天狗草紙』にみえる「一向衆」を一向俊聖教団とする説が流布されたが、画および画中詞の分析などにより一遍のことを指していることが明らかとなっている。 上記の通り、一遍と一向とは全く別箇に教団を開いたものであるが、時衆とは元来“不断に別時念仏をおこなう衆”を意味する一般名詞であり、一向は、同時期の一遍房智真と同様に、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、時衆とみなされたようである。やがて一向のほか国阿や空也までも時衆(時宗)として認知されるに至っている。蓮如は延徳2年(1490年)の『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」と明記し、この時点で既に一向の教団が一遍時衆と同一視されていた上に「一向宗」とよばれていたことがわかる(ただし一向の教団を一向宗とよんだ唯一の史料)。 近世には、江戸幕府の命により、清浄光寺を総本山とする時宗の管轄下におかれた。『時宗要略譜』によると時宗十二派のうち、一向派、天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。当然のように両派は再三に亘る独立運動を起こすも実らなかった。 明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった。この独立転宗運動で奔走した一人が斎藤茂吉が師と仰いだ佐原窿応(山形県上山市宝泉寺→番場蓮華寺)である。大半の寺院が時宗を離れ、浄土宗に帰属したのは1943年である。 また、一向宗を参照。
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