柴田屋館とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 柴田屋館の意味・解説 

柴田屋館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/21 04:52 UTC 版)

柴田屋館
富山県
別名 柴田屋館、柴田屋敷
城郭構造 平城
築城主 柴田久光
築城年 永禄年間(1558年 - 1569年)以前
主な城主 柴田氏(柴田久光)
廃城年 天正3年(1575年)頃
遺構 曲輪土塁
指定文化財 南砺市指定史跡
位置 北緯36度35分51秒 東経136度54分48秒 / 北緯36.59750度 東経136.91333度 / 36.59750; 136.91333座標: 北緯36度35分51秒 東経136度54分48秒 / 北緯36.59750度 東経136.91333度 / 36.59750; 136.91333
テンプレートを表示

柴田屋館(しばたややかた)は、富山県南砺市柴田屋[1]にあった城館である。市史跡

越中国蓮沼城支城としての役割を果たしていたとみられる。構造はほぼ正方形で周囲に土塁を巡らせていた。

歴史

永禄年間(1558年 – 1569年)、椎名康胤家臣柴田丹後守久光が拠っていた。

天正3年(1575年)頃、越中国木舟城石黒成綱に攻め滅ぼされたとされる(以上、案内板による)。

尚、柴田丹波守久光は越中国の小守護代であった遊佐氏の家臣であったと云う説もある。ただし、永禄年間における礪波郡は越中一向一揆勢の実質的な支配下にあり、一揆勢により当主が国を追われた遊佐氏の影響力は皆無に等しいと考えられる。更にはその当時椎名氏の影響力は越中国東部(呉東)に限られていた。どちらの説も正しいのであれば、柴田氏は元々は遊佐氏の支配下にあったが徐々に一向一揆勢力に取り込まれ、蓮沼城で一向一揆に合力していた康胤の支配下に置かれたものと云う事になる。

現在

現在では日吉社の境内となっているが、境内と外部との高低差が往時を微かに偲ばせている。また土塁の一部が確認出来る。自治体によって碑、案内板が建てられている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 礪波郡柴田屋村、東礪波郡野尻村柴田屋

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「柴田屋館」の関連用語

柴田屋館のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



柴田屋館のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの柴田屋館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS