細川氏との勢力争いとは? わかりやすく解説

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細川氏との勢力争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:50 UTC 版)

畠山持国」の記事における「細川氏との勢力争い」の解説

持国義教によって家督追われた者達を復権させ、同時に自らも勢力拡大狙っていたが、これに細川氏対抗義教取り立てられた側に肩入れして各大名お家騒動誘発させた。 信濃守護・小笠原氏当主小笠原宗康従兄小笠原持長対立文安3年1446年)に宗康が戦死して弟の光康が後を継いだ持国2回目管領在任期の宝徳3年1451年)には持長が守護になっており、それまでは光康が守護だった事から、持国は持長を、細川氏は光康を立てていた事が分かる加賀でもお家騒動発生嘉吉元年富樫教家義教怒り恐れて出奔、弟の泰高が還俗して守護となったが、直後義教暗殺、泰高は教家派の守護代・本折氏に攻め込まれた。持国はこの紛争でも教家を支持して嘉吉2年1442年)に守護を泰高から教家の子春に変えた。しかし、実際加賀掌握していて、且つ細川勝元実際勝元叔父持賢)に支援された泰高が有利であり、決着着かないまま文安4年1447年6月京都土一揆発生、両派共に止む無く妥協加賀を北と南に2分割して、成春・泰高に分け与えた。 更に文安2年1445年)、元近江守護六角満綱嫡男の持綱と共に次男の時綱を擁立した家臣団自殺追い込まれる事件発生持国何故か武力介入をしなかったが、勝元管領就任する幕府は3男の久頼を還俗させて同族京極持清と共に時綱一派壊滅させた。 大和では大和永享の乱没落した越智家栄復帰させ、義教怒り買った大乗院門跡経覚復権先の大乱幕府方成身院光宣筒井順永兄弟交戦中の嘉吉3年経覚についた古市胤仙豊田頼英小泉重弘大和支配権委ねた。しかし、勝元後援の元、光宣反撃する及んで戦況一進一退古市胤仙急死もあって享徳3年1454年)に和睦した。 なお、関東では鎌倉公方復帰した足利成氏には好意的な対応を取っていた。成氏の復権尽力し宝徳2年1450年)の江の島合戦でも仲裁当たったまた、宝徳2年守護領となった山城守護支配貫こうとして荘園横領課税行い南山城影響力を持つ興福寺山城国人と対立興福寺門跡尋尊持国権勢評して宝徳3年9月1日条の大乗院日記目録に「近日畠山権勢無双也」と表現している。

※この「細川氏との勢力争い」の解説は、「畠山持国」の解説の一部です。
「細川氏との勢力争い」を含む「畠山持国」の記事については、「畠山持国」の概要を参照ください。

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