細川氏との勢力争い
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持国は義教によって家督を追われた者達を復権させ、同時に自らも勢力拡大を狙っていたが、これに細川氏が対抗、義教に取り立てられた側に肩入れして各大名のお家騒動を誘発させた。 信濃守護・小笠原氏は当主の小笠原宗康と従兄の小笠原持長が対立、文安3年(1446年)に宗康が戦死して弟の光康が後を継いだ。持国の2回目の管領在任期の宝徳3年(1451年)には持長が守護になっており、それまでは光康が守護だった事から、持国は持長を、細川氏は光康を立てていた事が分かる。 加賀でもお家騒動が発生、嘉吉元年に富樫教家が義教の怒りを恐れて出奔、弟の泰高が還俗して守護となったが、直後に義教が暗殺、泰高は教家派の守護代・本折氏に攻め込まれた。持国はこの紛争でも教家を支持して嘉吉2年(1442年)に守護を泰高から教家の子成春に変えた。しかし、実際は加賀を掌握していて、且つ細川勝元(実際は勝元の叔父持賢)に支援された泰高が有利であり、決着が着かないまま文安4年(1447年)6月に京都で土一揆が発生、両派共に止む無く妥協、加賀を北と南に2分割して、成春・泰高に分け与えた。 更に文安2年(1445年)、元近江守護六角満綱が嫡男の持綱と共に次男の時綱を擁立した家臣団に自殺に追い込まれる事件が発生。持国は何故か武力介入をしなかったが、勝元が管領に就任すると幕府は3男の久頼を還俗させて同族の京極持清と共に時綱一派を壊滅させた。 大和では大和永享の乱で没落した越智家栄を復帰させ、義教の怒りを買った前大乗院門跡・経覚も復権、先の大乱で幕府方の成身院光宣・筒井順永兄弟と交戦中の嘉吉3年に経覚についた古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘に大和の支配権を委ねた。しかし、勝元の後援の元、光宣も反撃するに及んで戦況は一進一退、古市胤仙の急死もあって享徳3年(1454年)に和睦した。 なお、関東では鎌倉公方に復帰した足利成氏には好意的な対応を取っていた。成氏の復権に尽力し、宝徳2年(1450年)の江の島合戦でも仲裁に当たった。また、宝徳2年に守護領国となった山城で守護支配を貫こうとして荘園横領や課税を行い南山城に影響力を持つ興福寺や山城国人と対立、興福寺門跡の尋尊は持国の権勢を評して宝徳3年9月1日条の大乗院日記目録に「近日、畠山権勢無双也」と表現している。
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