細川晴元時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていったと思われる。天文5年(1535年)に晴元は京都に移り管領に就いたが、度々芥川山城に戻り指揮をとっている。これは芥川山城が要害の地であったからである。 天文8年(1539年)8月、晴元は三好長慶によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城したが、両者の間に和議が成立し9月13日に退城。替わって晴元派の薬師寺与一が入城した。その後、晴元と同族の細川氏綱との間に確執が生じ、天文15年(1546年)に芥川山城は氏綱方に奪われたが、翌天文16年(1547年)に三好軍に包囲され、6月26日に芥川山城は無血開城し長慶の支配下となった。
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